07.持つべきものは近所の友達
思わず手を止めて彼を見やると「そう固くならなくて大丈夫ですよ」と笑われる。
「仰向けより、うつ伏せにしてあげてください。そっちのほうがお母さん猫の母乳を飲ませてもらっているときと同じ姿勢になるので、安定するんです」
「そう、なんだ」
「もしかしたら拾われる直前までお母さん猫のお乳を飲んでいたかもしれません。そうすると急にお母さんの乳首から哺乳瓶の乳首になったってことですから、慣れたものから変わってしまって気になるのかもしれませんね。母乳を経験したことのある子は哺乳瓶を嫌がる子も結構いるんですよ」
「人工物ですしね……」
「そういう場合はシリンジであげたりもするんですけど、病院ではこの哺乳瓶であげて、ちゃんと飲んでたんですよね?」
「はい。先生が飲ませたときは特別大変そうにしてなかったので、てっきりそのつもりで家でもあげられると思ってて……」
「やってみたら突然うまくいかなくて焦っちゃったんですね」
その通りだった。
うつむけば、店長は慰めるように言う。
「ひとりのときも慌てなくて大丈夫ですよ。確かに仔猫は小さいし弱いから体調が急変することもありますけど、それだって一秒目を離した隙に死んでしまうほど弱くはありませんから」
「でもこの子に何かあったら、山柿さんに何て言ったらいいか」
「こう言っては冷たいように聞こえるかもしれませんが、そんなに気にすることはないと思いますよ」
「…………」
これまで柔和だった店長の口調が、すこし冷たいものになってヒヤリとする。
「そもそも、自分が拾っておいてあなたに押し付けて、飼えないのなら川にでも捨てようと言ったんですよね。今では当然、野良猫であろうとわざわざ死なせるようなことは許されていません。違法です。でも山柿さんは高齢の方ですから、彼女に時代はそれもままあることだったってだけです。そういう感覚の人ですから、残念には思ってもすぐに忘れてしまうんじゃないかな」
「それは……」
「ひどい人に思えるかもしれませんが、感覚は人それぞれです。生きてきた時代にもよります。もちろん、今現在のこの社会で、五、六十年昔の感覚を持ち出されても通用するわけがないんですが、身内ならともかく、大家さんとそのアパートに住んでいるだけの間柄ですから。大家さんの感覚を変えてあげようっていうのも変な話ですし、深入りするのも無意味かなと思うんですよね」
「そうですね……」
「あなたはこの子の命に対する責任を十分すぎるほど理解して、ちゃんと全うしていると思います。ですから、山柿さんのためにどうこうするよりは、この子猫ちゃんのことを第一に考えて、今は少しでもお世話に慣れることに専念しましょう」
「はい」
それから、澪は店長の指示通りにミルクを与えてみた。けれどもやっぱり最初はうまくいかず、教わってもダメかとがっくりと肩を落としたのだった。
「あなたが下手だとか、そういう問題ではないと思いますよ。あとはもう、この仔猫ちゃんがどうやったら哺乳瓶から上手に飲めるようになるか、練習あるのみです。猫ちゃんのほうだって練習しなきゃ、いくら歴戦のミルボラさんが介助してあげたってうまく飲めるようにはならないんですから。何度もチャレンジしましょう」
相変わらず哺乳瓶を口元に持っていっても顔を背けるばかりだった仔猫だったが、悪戦苦闘するうちに偶然ながら乳首が口の中に入った。そうすると、今度は口に入った異物を吐き出そうとしているのか否か、カミカミとし始めた。
「あ、いい感じですよ! もうちょっとです」
「カミカミじゃなくて飲んでー」
「ほんのちょっと差し込む位置を加減してみましょうか」
「押し込んじゃうと苦しいですよね」
仔猫も澪の手も、タオルを敷いた膝もこぼれたミルクだらけだった。けれどもそんなことは気にしてられない。
あれこれと試行錯誤して、よたよたと哺乳瓶に吸い付いてきた仔猫が、ばたつかせた両手を澪の右手の小指に引っ掛けた。
「あっ」
「あ」
それでようやく体が安定したらしい。
上手に吸い始めた仔猫に、澪は声にならない歓声を上げた。
「やりましたね!」
隣で見守っていた店長も拳を握って喜んでくれている。
良かった。本当に。
やっと上手に飲んでくれた仔猫は、数日ぶりに食餌にありつけたとでもいうように、本当に気持ちよくごくごくと飲んだ。
こんなに勢いよく飲んでくれたのは、病院で先生が飲ませてくれたとき以来だ。
「すごいですね、結局十七ミリリットルくらい飲んでくれましたよ。お腹空いてたんですねぇ」
感心したように店長が仔猫を撫でる。
澪はちくりと心が痛んだ。
「わたしが上手にあげられなかったから、ずっとお腹空かせてたんですね……」
「それでも特別やせ細って小さな子ではないですし、一週間よくがんばったと思いますよ。少量ずつしか飲んでくれなかったのだとしたら、相当な回数飲ませたんじゃないですか?」
その通りだった。
病院の先生は「生後二週間程度だから一日四、五時間おきに」と言ったが、実際仔猫が要求するのは一時間半から二時間に一回だった。
「またうまくいかなくなっちゃうかもしれませんが、そのときはご連絡ください。僕もお店の忙しい時間は抜けられないけど、それ以外でしたら時間見繕って来ますから」
言って、店長は名刺をくれた。
立橋聖。喫茶〝猫の小径〟のスタッフ。
――確かにあのお店、猫がいっぱいいたなぁ。
澪はふと思いつく。
……まさかあの鏡の中猫たち、お店の人には見えてる?
しかし、実際にストレートに聞ける内容でもなく、無難に看板猫のことを尋ねた。
「看板猫ちゃんがいるからこのお店の名前なんですか?」
「そうなんです、マスターの猫なんですよ。ちくわくんって言うんですけど」
この人、店長じゃないのか。
澪はちょっとびっくりした。
「店長さんじゃなかったんですか……」
心の中で訂正しておこう、と思ったのだが、しっかり口に出てしまっていた。
「ええ。マスターは今、長期休暇を取って旅行に出ているので、代理で僕が毎日お店にいるんです。でも普段は二人体制ですよ」
「なおさらお忙しいところ引き止めてしまってすみませんでした……立橋さん。あ、わたし、白崎澪と言います」
「澪さんですね。僕のことは聖って呼んでください。名字で呼ばれるの、あまり好きではなくて」
「あ、ひじりさんって読むんですか」
これもまた「せい」さんだと思っていた。
「はい。良かったら、またお店にいらしてくださいね。猫ちゃんはこの通り上手に飲めるようになりましたから、今度こそもう少しご自分の時間を作っても大丈夫ですから。ね」
「今日の夕飯からもうお世話になると思います。買い物に行くに行けなくて食材がまったく家になくなってしまったので……」
聖は今度こそ声を上げて笑った。
「それはぜひ。腕によりをかけた料理を作ってお待ちしてます。といっても、お店で出してるのはいかにも喫茶店らしいメニューばかりなんですけど」
「昼にいただいたサンドウィッチもおいしかったです」
ありがとうございます、と聖は言って、立ち上がった。
「それでは、僕はそろそろ戻りますね」
「あ、ごめんなさい。スマホ届けてくださっただけなのに長々と引き止めてしまって……」
「いえ、澪さんの悩み事が解決して良かったです」
玄関口まで送って行くと、辞去する寸前に聖が「そうだ」と澪を振り返った。
「澪さんが必死だったのはわかりますが、男を容易に家に上げてはだめですよ。女性の一人暮らしなのに不用心すぎますから」
「……すみません」
必死過ぎて考えていなかった。恥ずかしい。
頭を抱えると、聖は続けて、
「今度はお店でお会いしましょう。お待ちしてます」
と言って、錆びついたアパートの階段を降りていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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