06.救世主、店長
「ええっと……」
「お仕事中にすみません。でも他に頼れる人がいなくて……」
ぺこぺこと赤べこのように頭を下げると、店長が困ったように頬をかいた。
「お家に上がっちゃって良いんですか?」
「構いません! あっスリッパ! ちょっとお待ちください」
「いいんだ……」
澪は慌てながらも店長を家に上げ、仔猫のいる寝室へ案内する。
見ず知らずの男を突然家に上げて、ろくすっぽ片付けてもいない寝室まで見せたことに関しては、すっかり頭からすっぽ抜けていた。
とにかく必死だったのだ。
店長もわかっていたはずだが、澪の必死さから何かを思ったのだろう。揶揄することもなく素直に家に上がり、まっすぐにケージの中の仔猫を見てくれたのである。
「わー本当に小さいな。もともとちょっと小さめですかね。いつお家に迎えたんですか?」
ぴゃいぴゃいと必死に訴える仔猫を抱き上げ、店長はにこにこと歓声を上げた。
本当に猫が好きな人らしい総合の崩し方に、澪もほんの少し緊張が抜ける。
「一週間前にお預かりしたんです。大家さんが見つけて、大家さんでは手に余るということで、うちに」
「ああ。山柿さん、だいぶ高齢の方ですもんね。その頃、この子の目は開いてました?」
「三日、四日前から開き始めて、今日くらいにぱっちり」
「一番かわいい時期ですよねぇ。毎日一番かわいいんですけど」
どうものんびりした人のようだ。猫が好きなのだなとわかる言葉に、こちらがほんわかしてしまう。
「体重の記録つけてますか?」
「え、いえ……」
しなければいけなかったのだろうかと不安に思っていると、店長が笑った。
「成長の大事な記録になりますから、これからはつけておくといいですよ。大きくなってきたら毎日でなくても構いませんから」
「はい」
「これくらいの子ならキッチンスケールにタッパーやボウルを乗せて、その中にこの子を置けば測れますから」
「はい」
「それで、ミルクですよね」
「あっ用意します」
とにかく焦っていて、湯を沸かすことも忘れていた。
「じゃあ先にキッチンスケールと入れ物お借りしてもいいですか?」
「はい」
最近頻繁に自炊するようになったから、キッチンスケールを買っておいてよかった。
在宅時間が長いから、いずれ何か手の込んだ料理でもと思っていたところだったが、思わぬところで役に立つものである。
店長にスケールとボウル、それからキッチンペーパーを数枚渡して、澪はミルクの準備に取り掛かった。
毎回煮沸消毒している哺乳瓶と乳首、それから中蓋を用意して、お湯が沸騰する前に計量して注ぐ。その上から粉ミルクを加えて中蓋を閉じて振り、混ざったら中蓋を外して乳首へと取り替えた。
「作り方、手慣れてますねぇ」
「わっ」
集中していて気づかなかった。
店長が仔猫を抱いて、キッチンまで様子を見に来ていた。
「いつも冷ましてからあげてますか?」
「人肌くらいというのは獣医さんにも聞きました」
「獣医さんにももう診せたんですね。良かったです。ミルク飲んでくれないのも相談しました?」
「その、一週間前に病院で一通りの指導はいただいたんですけど、看護師さんがやってみせてくれたようにうまくいかなかったんです。次の土曜日にまた連れて行こうかと思ったんですけど、こんな小さな身体でうまく飲めないまま一週間も放っておいたら命にかかわるんじゃないかと心配で心配で……。かといって既に月曜日に有給をもらって病院に連れて行った手前、更に有給を……というのが難しかったんです」
そうして、もう木曜日になろうとしている。自分の力で何とかしなくてはと思っていた。
「本当は、必要なときにすぐに病院に連れていける生活環境ではないので、わたしには飼う資格はないんです。それはわかってるんですけど、山柿さんはあの調子だし、一度は引き取れないとわたしも断ったんですけど……。それなら川へ捨ててくると言うものだから、見るに見かねて里子に出せるまでは預かることになっちゃったんです。だからこの子にも申し訳なくて」
山柿は昔の人だから、飼えないのなら捨てるしかない、という発想に結びついたようだった。
それもまかり通った時代もあっただろうが、現代社会ではそうもいかない。看過できることではなかった。
澪が引き取らなかったら、見殺しにされてしまう。だから仕方なくとはいえ、それ以外に選択肢がなかった。
とはいえ、澪には愛護団体のような機関への伝手もない。
一度、それらしい組織をインターネットで検索して、引き取ってくれるよう電話をした。けれども今は初夏で、まさに猫の出産シーズン真っ盛りである。地域の保護猫団体や愛護協会では、結局色好い返事がもらえなかった。
そう、これまでの状況を掻い摘んで説明すると、店長はゆっくり頷いて言った。
「何とかしなきゃって思ってもらえただけでもこの子は幸せ者ですよ。お世話は大変だと思いますけど、気負いすぎないでくださいね」
彼の言葉はやわらかい。
澪が守らねばと思ってきたものが肯定されたようで、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
その間にも作ったミルクを冷ましているのだが、これがなかなかに時間がかかるのだ。
「高温で作ったのに、また冷めるまで待たなきゃいけないから大変ですよね。猫のほうもミルクを作ってるってわかると大騒ぎしますし……」
などと店長が言っている間にも、サトイモ仔猫はミルクを寄越せと小さなライオンのように吼えている。
澪もちょっと笑って言った。
「そうなんです。だから毎回慌てちゃうんですよ」
「気持ち、わかります」
今は手の中で暴れる仔猫を、店長がたやすく包み込んで押さえてくれている。だからいつもより幾分かマシだった。
こうなると、どこからそんな力が湧いてくるのかと驚くほどの強さで手の中から逃れようとするから、片手では押さえるのが難しいのだ。
「今は店長さんが抱っこしてくれてるので、すごく助かります」
「そうですか。ちょっと安心しましたか?」
「え? あ、はい」
唐突な質問に、澪はミルクから顔を上げて店長を見やった。
この人が優しげに見えるのは、特徴的な下がり眉のせいなのかな、と少しだけわかった気がする。
「お店に来たときからずっと張り詰めたような顔をしてらっしゃったので、何か事情がおありなんだろうなとは思ってたんです。この猫ちゃんが心配だったんですね」
言われて、初めて気付かされたような気持ちになった。
そうか、自分はずっと張り詰めていたのか、と。
ちょっと面食らって瞬くと、店長は笑って澪を指差した。
「ミルク、ちょうどいい温度になりましたかね」
「そうですね……たぶん。いつもこのくらいなんですけど」
「僕が見ましょうか」
「あ、」
店長は澪の手からひょいと哺乳瓶を取り、軽く振って確かめる。
「大丈夫そうですね。ここまでは何も問題ないように思えますけど」
「はい。でも……」
「哺乳瓶は嫌がる?」
「そうなんです」
「とりあえずやってみましょうか」
ひとりでもうろつくには手狭なキッチンにふたりもいたのでは、いくらなんでも動きにくい。
澪と店長は、場所をリビング兼仕事部屋のラグの上に移して授乳をすることにした。
膝元にタオルを敷いて、店長の手の中に抱かれていたサトイモ仔猫を預かる。
元気よくミルクの催促をする毛玉を左手に座らせるようにした。右手は哺乳瓶を逆手に持ち、乳首を咥えさせようとした。
「あ、うまく行かない原因がひとつわかりましたよ」
「え」
そのとき、店長が閃いたとばかりに言った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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