04.サトイモ、ところどころ白
もぞもぞと動くサトイモの正体は、生後二週間くらいと思われる仔猫だ。
最初は猫かどうかも疑わしかった鼠くらいのちいさな毛玉だったが、ここ数日で目が開いて、ようやく猫らしい顔つきになってきたところだった。
成長してみてだんだんとはっきりしてきたが、キジトラというよりはキジ白である。とはいえまだまだ丸くなって寝ている時間が多く、概ねサトイモと言えた。
初めて引き取ったときよりは多少成長したとはいえ、まだ片手におさまる程度である。一瞬でも目を離したら、本当に死んでしまうかもしれなくて、澪は気の抜けない日々を送っていた。
それくらい、授乳期の仔猫というのは頼りない。
数時間おきのミルク、排泄の介助に、お腹に溜まった空気を出してやって、寝かしつけ。
することは人間の子供と変わらない。その上こんなに小さな生き物だから、体温調節に細やかな気配りが必要だった。
それから、外敵から守ることも。
初夏の清々しい気候にもかかわらず、家中の一切の窓を閉め切っているのは、そういう訳だった。
万が一のことがあったら、もう立ち直れない。
澪はダンボールの中の仔猫がくぴくぴと寝息を立てていることを確認して、そっと息をついた。
命を預かるということは、こんなにも重い。
いや、知らなかったわけではない。澪には猫の飼育経験がある。けれど、こんなに小さな仔猫を預かるのは初めてのことだった。
――一週間前、大家の山柿がアパート前に落ちていたと言って、仔猫を連れてきたのだ。
落ちていた、とはおかしな表現だが、捨てられていたのか、親猫とはぐれてしまった様子だったのか、山柿に尋ねてもはっきりしなかった。というのも、この大家、高齢故か意思疎通が難しいのである。
これでよく大家をやっているなとは思うのだが、その辺りの話は複雑になるので今は置いておく。
山柿が仔猫を拾った当時、ちょうどしばらくぶりの出社から帰宅したところだった澪が出くわしたのが、運の尽きだったのかもしれない。
いや、もとよりこのアパートは澪の他に、定年退職した一人暮らしの男性と、今年新卒で上京してきたばかりの青年しかいない。日中ほとんど家にいない彼らより澪に白羽の矢が立ったのは、当然の流れだったのだろう。
もちろん、澪だって二つ返事で引き受けたわけではない。
こんな小さな命を預かるなんて、自分には荷が重いと辞退した。拾うつもりがあるなら然るべき処置をしたのち、相応の――それこそ保護団体だとか、そういうところに――預けたほうが良いとは言ったのだ。けれどもそうした細かい手配が山柿にできるはずもなく、彼女の口ぶりを聞いていると、そのまま別のどこかに捨てられてしまいかねなかった。
「それなら仕方ないわね」――などで捨てて済む話ではない。
押し付けられて巻き込まれただけのことであったとしても、見過ごせなかった。
元の場所に返してくるなどと言い出した山柿を止めて、自分が預かると申し出るより他、良い方法が思いつかなかったのだ。
それからはもう怒涛の日々だ。
その日のうちに病院につれていき、早急に必要な治療や処置はないか診てもらい、続いて仔猫を飼うための道具を揃えるためにホームセンターに走った。
幸いにも仔猫の健康状態は良好で、大きな病気もなかった。あとはもう少し大きくなったら追加で検査を行い、ワクチンを打つ。
医師には懇切丁寧に今後の予定を説明されたものの、それよりも大変だったのはそこからだ。
病院では哺乳瓶から上手にミルクを飲んでくれていたのに、澪が自分でやろうと思うとどうにもうまくいかなかったのだ。
仔猫は空腹を訴えてぴーぴーと元気よく鳴くのに、教わった通りにミルクを作って哺乳瓶を口に運んでも、口に含んでいるのだか吐き出そうとしているのだか、溺れるようにミルクをこぼすばかりだった。
毎回全身をミルクまみれにする仔猫の後始末もさることながら、飲んでくれないのでは腹は満たされない。そのためか、仔猫は頻繁に空腹を訴えた。
こんな調子で大きくなれるのかと、緩やかに弱っていってしまうのではないかと心配で、澪はこの仔猫を預かってからの一週間、ずっと気を張り詰めていた。
おまけに大家の山柿は仔猫の様子が気になるようで、日に三回は澪の部屋を訪ねては様子を見たがるのだ。
彼女にとっては、ただかわいがるだけの対象なのだろうけれど。
仔猫の世話をしながら仕事をして、さらには意思疎通の難しい大家の老婆の相手までしてやることは、澪にとっては荷が重かった。
今は落ち着いて眠っている仔猫を前に、澪は鬱々とため息をついた。
仔猫がきちんと育ってくれればそれで良い。良いけれど、本当にちゃんと育つだろうか。自分の育て方は合っているだろうか。
もう一度病院に連れて行ってみようかと思ったこともある。けれども澪にも仕事があるから、そう頻繁に休みを取ることも難しかった。
――それに、もうひとつ深刻な問題が眼前に差し迫っている。
「……お昼ご飯どうしよう」
仔猫が健やかに眠っていることを確認すると、少しばかり気が抜けてお腹が鳴った。
実のところ、今日は朝から何も食べていない。家にある食材がついに底を尽きたのだ。
米は運悪くストックが切れていて、カップ麺はもとより買い置きの習慣がなく、パンはもう冷凍庫にさえ一枚も残っていなかった。
一週間前に仔猫を迎え入れてから、買い物のために家を空けることも恐ろしくて一歩も家から出られていないのだ。
数年前から始まった在宅勤務に慣れて、在宅時間が増えたが故に、保存食をストックしていなかったのが仇となった。
一週間で、家にある食料という食料を食べ尽くしてしまった。買い出しに行かなければ澪自身が飢える。けれど、どうにもこの仔猫を一匹で留守番させるのは怖かった。
自分が目を離した数十分の間に何かあったら。
そんな短時間で何が起こるほどのこともないだろうとは思うのだが、それでももしもはぬぐえない。
とはいえ、地元を離れて暮らす澪にとって、この近くに住む友人はいないし、地方にいる家族に頼むことも難しい。
できることと言えば、コンビニでありったけの食料を買ってくることだろうか。
確かにそれが一番手っ取り早いが、そのコンビニも往復だけで三十分はかかる。住居費の削減を重視したこのアパートは、駅から徒歩十五分の立地にあり、おまけに途中にコンビニの一軒も存在しないのだ。ついでに、スーパーも駅前にしかない。
買い物する時間も考えると、とてもじゃないが仔猫を置いていくことはできなかった。
――どうしよう。
かといって、このまま自分が空腹を耐えるだけという選択肢もあり得ない。仔猫を留守番させられるようになるまでには、少なくともあと一週間以上は時間がかかりそうだ。だから今、何かしら解決策を見つけ出さなければならない。
そこで澪が思い出したのが、アパートの目の前の喫茶店の存在だった。
玄関に面した道路を渡った対面に位置する、古い店構えが軒を連ねる中の一軒。
あそこは確か個人経営の喫茶店で、コーヒーや紅茶だけでなく、食事も提供していたはずだ。
その店に入ったことはないが、店先に出ている看板はよく目にしていたので覚えている。
サンドウィッチくらいの軽食ならすぐに提供されるだろうし、駅前まで買い物に行くより早く帰ることができるのではないだろうか。
ちょうど今なら昼時も外しているし、そう混んでいることもないはずだ。それでももしも混雑していたら一度帰宅して、また時間を置いて行ってみればいい。
何せ目の前なのだ。難しいことはない。
そうと決まれば、澪は急いで身支度を整えることにした。
そうして、鏡の中に猫が棲まう奇妙な喫茶店の存在を知ることになったのだった。
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