02.店内に猫がいっぱいいる
しかし残念ながら、今はそれどころではない。
実際には、食事をする時間さえ惜しい。一刻も早く食べ終えて家に戻らなければならなかった。
そのために、食事も素早く提供してもらえそうなものを注文したのだ。本当だったらミニではなくふつうのクラブハウスサンドを食べたいところだったが、とにかく時間がない。
家であの子がどうしているかと考えると――。
ふと大腿の上に慣れた重さを感じて、澪は視線を膝へと落とした。
すぐ真隣に、茶色と白の毛玉がちょこんと前足を差し出している。ちょうど、澪の膝の上に乗ろうかと言わんばかりの姿勢で。
「え」
澪は驚いて、ぱっと背後の鏡を見やった。
背面の大きな鏡に映るのは、黒髪を低い位置でひとつに結わえた、どこにでもいそうな冴えない二十代後半の女――自分がひとり。テーブルの上に水のグラスが置かれていて、そのテーブルの上に堂々と座る三毛猫、香箱座りするハチワレ猫、足が半分落っこちたまま寝そべる大きなキジトラ猫がいた。
膝の上に乗ろうとする茶白猫は、背もたれの死角になって見えない。
もう一度、今度は鏡越しではない実際のテーブルを見やる。するとやはりそこには、水のグラス以外、何もない。
けれども今度は視線を転じ、ソファ席の端に座る男性客越しの鏡を見やった。
すると確かに、澪の座るテーブルには、威風堂々とした三毛猫、香箱座りのハチワレ猫、そして足が半分落ちたまま眠るキジトラの他に、澪の膝のすぐそばに座る茶白猫がいた。
この茶白猫だけ、鏡越しではなく、自分の肉眼が捉えたものと同じ色の猫だ。
ということは。
「この子本物――っ」
声を上げた瞬間、茶白猫が「カァッ」と威嚇の声を上げた。
澪ははっとして口をつぐむ。
驚かせてしまったのかもしれない。
身を固くしていると、茶白猫は不満げに長い尾を揺らしてソファから下りて行った。
「すみません」
ふたたび頭上から声が降ってきて、澪は驚いて顔を上げた。
「あの子、うちの看板猫なんです。猫、苦手ですか?」
「い、いえ。あ、でも、わたしこそごめんなさい。猫ちゃんを驚かせちゃったみたいですね」
「ああ……」
店長は視線を転じ、今度はカウンター席のテーブルにひょいと飛び乗った茶白猫を見やる。それからもう一度澪を見つめ、困ったように眉を下げた。
「そういうわけじゃないですよ。うちの子が無理に脅かそうとしたのがいけないんです」
「……?」
「それはそうと、お待たせいたしました。ミニクラブハウスサンドです」
店長は言って、真っ白い皿をテーブルの上へと置こうとした。
「あ」
そういえば、そこには猫が。
澪ははっとして背後を振り返った。
ちょうどそのとき、鏡に映った三毛猫とハチワレ猫、そしてキジトラ猫は、店長が容赦なく置いた白い皿から逃れるように一斉にテーブルから飛び降りたのだった。
澪がテーブルに向き直ると、やっぱりそこには三匹の猫などいない。彼らが飛び降りた足元にも何もなかった。
つまり、だ。
あの三匹の猫たちは、鏡の中にしか見ることのできない、存在しない猫たち、なのだろうか。
「どうかされましたか?」
「いえ……」
鏡の中にしか映らない猫がいるようなんですが――などと、初めて来た店でオカルトじみたことを口にする勇気はなかった。
澪が曖昧に笑うと、店長は伝票をテーブルに置く。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
店長がカウンターの中へ戻っていき、金髪の女性客に撫でられていた茶白猫を一緒に構い始める。それを遠目に眺めながら、澪はそうっと辺りを見回した。
カウンターとソファ席を隔てるパーティションの鏡に、澪の座る長いソファが映っている。
澪は右側を壁にして一番端、同じ列の左端に男性客がひとり。
肉眼では確かに人間ふたりしか座っていないはずなのに、パーティションの鏡には、空いた真ん中の席に茶トラ猫とキジ白猫が団子になって寝そべっていた。
――やっぱり、鏡の中にだけ猫がいる。それも、たくさん。
けれども客も、店員も、そのことに気づいていない。
実に奇妙な喫茶店だ。
本当はヤバい店なのではないかとすら感じる。けれど何度も言うように、澪にはとにかく時間がなかった。
早く食べて帰らないと、〝あの仔猫〟に何かあったら。
気がかりなことがありすぎて、この喫茶店の異常さに気づいていながらも、澪はさして気に留めることなく猛然と食事を始めたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
完結まで毎日投稿します。場合によっては1日2回かも。
一言読了報告だけでも感想等いただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。