01.近い場所ほど行かないこともある
奇妙な喫茶店だった。
店内は明るく開放感がある。むき出しの梁から垂れる緩やかなシーリングファン、木目の風合いをそのまま生かした壁。森の深く豊かな香りさえ漂ってきそうなそのお店は、静かな自然をイメージした、おしゃれなカフェといったところだった。
初めて訪れた者でさえも、ついほうっと肩の力を抜いてしまう、落ち着いた風情である。
そこへ、ゆったりとした耳馴染みの良い弦楽器のBGMが、ほのかな都会らしさを匂わせる。まったくの大自然や原生林とはまた違う、人の温かい気配がすぐそこに寄り添った親しみやすさがあった。
店の規模感は、個人経営らしくさほど広くはない。
入り口から長方形に奥へと伸びるのは、下町らしいこの地域の、長屋造りの名残だろうか。
道路に面した入り口側は、天井から床までのガラス窓。その窓に添うように、丸いテーブルが三卓並んでいる。
ここに座る客は、観葉植物やブラインドカーテンである程度のプライバシーこそ守られているものの、どれくらいの客入りか、どんな客層か、これから入店を考えている初めての客に店の雰囲気を示す指標にもなっていた。
現に、今そこには一組の女性グループが遅い昼食を摂っている。
近くのオフィスからやってきたのか、制服らしき服装の二、三十代の女性たち三人が、ささやかな会話を楽しんでいた。
入口を入って左の壁から店の奥に向かってソファ席が並んでいる。四角い二人掛けのテーブルが四卓続いて、一番奥に五、六十代の男性がひとり新聞を読んでいた。
ソファ席の反対側の壁、つまり入口の右側の壁沿いはカウンター席だ。
そこにもひとり、こちらは常連と思わしき若い女性がいる。平日にもかかわらずパーカーにスキニーパンツというラフな格好で、金色の稲穂のように立ったベリーショートが特徴的だった。
身につけたアクセサリー類のゴテゴテとした風体からしても、規律に厳しくない職種の人なのだろうとひと目でわかる。
白崎澪は不躾に他の客を見つめないようにしながら、そっと辺りを観察していた。
このお店は初めて訪れる。
自宅から道路を一本挟んで目の前という好立地でありながら、今の家に住んで一年が過ぎて初めての来店だった。
澪が座ったのは、男性の一人客と同じ並びのソファ席だった。
眼前にカウンター席があって、その向こう側を従業員が忙しなく行き交う。といっても、今はランチタイムを若干外した時間で、やや落ち着いているようだった。
店長と思われる男性――女性? どちらかわかりにくい――がひとり、カウンター席の金髪の女性と会話しながらコーヒーを準備していた。
彼――もしかしたら彼女――は、鎖骨あたりまでかかる長い茶髪をゆるく一つに結わえた、きれいな面立ちの人だった。
年齢の頃合いは、澪よりいくらか年上だろうか。落ち着いたカフェの雰囲気にとてもよく似合っている。
背は高い。カフェの制服なのか、白いワイシャツにお店のロゴが入った茶色のエプロンをしていて、下は黒いスラックスを履いている。いかにも中性的な印象だった。
ベリーショートの女性の元気なマシンガントークにも丁寧に相槌を打っている姿からも、穏やかな人なのだろうとわかる。
おそらく声の感じから男性だとは思うのだが、どうにもその丁寧な物腰と髪の長さが、女性らしさを思わせるのだ。
――しかしそれにしても、奇妙な店だった。
一見してただのおしゃれな喫茶店なのだが。
澪は息を潜めるように、もう一度周囲を見渡した。
雰囲気や内装は、どこからどう見ても喫茶店だ。しかし、それにしては異様に鏡が多かった。
そもそも喫茶店にこんなに鏡などあるものだっただろうかと、澪は貧弱な脳内データベースから、行ったことのある〝喫茶店〟の光景を引っ張り出してくる。
ある店にはあったかもしれない。けれどいくらなんでもここまでじゃないだろうと、そっと背後を振り返る。
澪が座るのは背後を壁にしたソファ席だったが、その背もたれ以上の壁面も一面が鏡だ。そして、並びの端に座る男性客の側面の壁も、また鏡。
カウンター席とソファ席を隔てる低いパーティションも鏡。
さらには、入り口付近のレジキャッシャーの背面も鏡になっていた。つまり、このお店の壁面はすべて鏡ということになる。
最初は、そう広くはない店内を広く見せるための仕掛けなのかと思った。けれど、この鏡だらけの雰囲気に心当たりがあって、どうやらそうではないらしいとすぐに気づくことになる。
――この鏡の配置は、美容院に似たところがないだろうか。
まるで、もともと美容院だったテナントを、そのまま喫茶店に流用した――そんな気がした。
それに、内装よりももっと決定的におかしなところがある。
「ご注文はお決まりですか?」
「え?」
不意に声をかけられて、澪は顔を上げた。
カウンターの向こうでコーヒーを入れていた店長が、いつの間にか澪の席のすぐ傍に立っている。
澪がぼうっとしていたものだから、余計な声掛けをしてしまったと思ったのだろう。店長は柳眉を下げて、申し訳無さそうな顔をした。
「あ、すみません。ごゆっくりどうぞ」
「あっいえ! あの、ミニクラブハウスサンドをお願いします」
店に入ってすぐ、ここで食べるものは手軽で、すぐに用意できそうなものと決めていた。メニューを見て真っ先に〝ミニクラブハウスサンド〟にしようと決めてはいたのだが、それよりも異様な店内の光景に意識を奪われていたのだった。
「ミニクラブハウスサンドですね。お飲み物はいかがなさいますか」
「ああ、えっと……い、らないです」
「承知いたしました」
食事も取り扱う喫茶店ではあるものの、売りにしているのはコーヒーのようだ。にもかかわらず無料の水だけで済ませようとするのが心苦しくて、つい目が泳いでしまった。
嫌な顔をされるかと思ったが、さすがは接客のプロ。店長らしき男性は――多分男性だ――にこやかに注文を繰り返して、そのままカウンターの奥へと戻っていった。
また落ち着いてから、改めてコーヒーを飲みに来ようと、澪は心に決める。
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