怒りがチ力ラ
穏やかに笑みを浮かべる男性を険しい表情で見上げる落雁。
何か気に食わない――そんな感情が落雁の中を駆け巡る。それがやって来たのはもちろん、眼前の男からである。
「ぁ~あ……せっかくのサンドバッグくんが逃げちまった」
「良いじゃないか、彼は充分痛いメを見たことだし」
「……じゃあ、オレのこのやりきれねえ気持ちはどうしてくれんだ? なあ、オッサンよ」
男性の手を己の腕から振り払い、すると落雁は未だ固めたままの右拳に左手を被せるとごりごりと拳を鳴らした。
彼の怒りはまだ収まりを知らず、男性に対する不信感はそのお節介も相まって油となり燃える炎である落雁の怒りに注がれた。
内から怒りの炎に焦がれた落雁はその敵意を男性へと惜しみなく向け、そんな彼の言葉に対し返答したい男性に左手が伸びた。
向かう先は男性の胸ぐらである。
「よ、よせラク。そこな御仁は妾を助けてくれた善き人で――」
「うるっせえ。だいたいテメェが飛び出すからこうなったんだろうが! このまんまじゃ収まりつかねえんだよ。だからよ、邪魔ァしてくれたケリつけさせてもらうぜ、オッサン」
「まるで狂犬ね」
「ぁあっ?」
しかし伸ばされた落雁の左手首は別の手に掴み取られ。
その白く華奢な手の先を追い掛け、切っ先のような鋭い落雁の目が動く。そして捉えたのは黒髪の眼鏡をかけた――
そう脳が理解しようとした瞬間、視界がぐるり一回転し塗り潰される落雁。
「……ハッ」
「――! ルカ姉っ」
「……っ!?」
ルカが落雁の腕を極めに言った時、彼はそれに逆らうこと無く自ら宙に身を躍らせていた。
そして嘲笑と共に落雁が受け身を顧みず繰り出した蹴りに真っ先に気付いたのは白髪の女性で、彼女の呼び掛けに反応したルカが落雁より離れたことで彼の蹴りは虚空を掻き乱しその身体は地面に墜落した。
「おいおい、キミィ。相手は女の子だよ?」
真っ逆さまに落ちたものだからぶつけた頭をさすりながら徐に起き上がる落雁へと苦笑した男性が言う。どうやら彼の蹴りに本気を感じ取ったらしい。
命中すればルカの首は無事では済まなかった事だろう。
しかし落雁から笑みは消えず。
男性へと一瞥くれた後に彼は改めてルカを見遣ると口元を歪め歯を覗かせて笑みを形作る。
「女を殴る趣味なんざねえ。ねえ、が……だからって殴れねえわけじゃねんだ。相手ンなるなら容赦はしねえ」
「私だって女だからと嘗められるつもりは毛頭無い。多少出来るからと言って、勝てると思うな。狂犬風情が」
「面白えこと言ってくれんじゃねえか、クソアマ。猫一匹噛み殺すことなんざ造作もねえ、狂犬上等よォッ」
すっかり多数の見物客を前に始まった落雁とルカによる武闘。
一見無軌道に見えて、しかし事実無軌道な落雁の喧嘩殺法は速く鋭く、そして強い。
だが同様にルカの体術も巧みで柔軟。落雁の変則を見切り、いなすことで闘争を武闘へと昇華させている。
それにより血生臭く暴力的なだけのはずの喧嘩はエンターテインメントに変わり、見る者たちを悦ばせる。
「スゴい……ルカ姉とあんなに渡り合うなんて……」
「ルカ並みの体捌きとリタ並みの洞察力……いや、あるいは二人以上の――」
「る、ルカ姉は負けませんっ」
「ん、そうだな。この僕――いやこの俺、デミウスが見ている以上、ルカは負けんっ」
白髪の女性……リタから悲鳴が上がる。
そう告げた男性もといデミウスが彼女の肩を強く抱き寄せたのである。
瞬く間に赤面して行く彼女を他所に彼は続けた。
「ハニーッ、今こそ魅せてくれ! この俺を再びっ」
「わ、私もっ」
ルカッ――闘う二人を見世物として観賞しざわつくばかりの観客たちの中、デミウスとリタの二人の切実なる声は決して他を圧倒するようなものでは無かった。
しかし、しかしその声はただ一人届けるべき人のものに、届くべき人の元には届いていた。
それこそ犬のように低い位置から地を這うようにルカへと迫る落雁が放った肉弾は両手をクワガタの大顎が如く開き、彼女を捕らえんとする。
だが彼の大顎が彼女の腰を捕まえようとした間際、閉ざされて行く二つを跳躍することでルカは躱した。
「チィッ……バッタかよっ」
「違うっ、彼女は鷹だ! 天空より獲物を狩る、獰猛なる翼っ」
「はんっ、それがどうしたァ!?」
スカートを翻し、空へと舞ったルカ。
覗く生足は途中から薄く伸縮性に優れた布地に黒く秘匿され、急制動をかけ転身し己を見下す彼女を再度捕らえんと身を屈め跳躍の準備をする落雁の様相はさながら鎌首をもたげる蛇だが……
「い、いかん! 鷹と蛇では――っ」
「しゃらくせえェエッ」
「秘技――」
デミウスの言葉も、鹿子の憂いも纏めて振り払い落雁が跳ぶ。
足のバネを最大活用した彼の跳躍は、超人たる彼の能力をも得てアスファルトを踏み砕く威力があった。
さながら弾丸のように弾けた彼の伸ばした手――蛇の顎が空を制する鷹たるルカを目指す。
だが彼女は己が目元の眼鏡を取ると、不意にそれを迫る落雁へと投げ付ける。
無論そんなものでどうにかなる今の落雁ではなく、彼の腕の一振りで弾かれたルカの眼鏡は砕け散り、レンズが破片となり宙に散らばった。
「――なんじゃとて!?」
「ぁあ? ――なにっ!?」
直後散らばったその破片に映り込んだのは太陽。
遙か天空の彼方にさんさんと輝く燃ゆる星から放たれた眩き光を受け、落雁の眼前に散った破片が閃光を放つ。
落雁は己が跳んだ時、獲物を見上げ目が眩まぬようルカを誘導し大陽を背負う位置取りで挑んだがどうやらその思惑はルカに見抜かれていたらしい。裏目に出てしまった。
それにより目が眩んだ彼はその一瞬、確かに身が竦む。
そして――
「――流星脚っ!!」
ほんの一瞬の、しかし決定的な落雁の隙へとルカが渾身の蹴りを放った。身を捻り、錐揉みした後に放つ強烈な跳び蹴り。
宙空からどう言ったからくりか落雁へと急降下し始めたルカのその一撃に、落雁は間に合わない。
硬い硬い彼女のブーツ。その靴底が落雁の顔面を捉え、彼の鼻や口から溢れた赤が舞う。
致命的な一撃である。――ただの人であれば。
「――ラクゥッ!!」
顔面を抉られた落雁へと、しかし鹿子が放った声が届いた。
それはさっき、デミウスとリタが贈った声援と同じである。
ただし彼女一人の……しかし力強い声だ。
そしてそれを受け取るのはあの落雁である。
「このっ、クソアマがァッ! クセェ足なんぞ、食らわせてんじゃねェッ」
「なん――ッ」
「こっちの……番っだぁぁあっ」
ルカの渾身の一撃を以てしても刈り取られることの無かった落雁の意識がさく裂する。
痛みに熱された怒りが傷口より溢れ、それが力へと転ずる。
彼の手がルカの足を掴み、そして落雁は再び右手に拳を作る。
――ゥゥォォォォオン……
その刹那、街が凍て付いた。
鳴り響いたのはサイレン。
低くも巨大なその音色に、その音色が人々の顔から活気を瞬く間に奪い去った。
「……ぐはっ」
「これは……!?」
その音に気を取られた落雁とルカの二人。
墜落する落雁。裏腹に着地を成功させたルカが空を見上げた。
そこあったのは歪み。次元連結カタパルトと呼ばれる転送装置が生み出す次元の湾曲である。
人々はこの計画戦闘都市トウキョウで暮らすに当たり刻み込まれた防衛本能から速やかに最寄りの建物へと避難し、内部にある地下シェルターへと繋がるシャトルへと乗り込んで行く。
ものの数分で街は空となる。
計画戦闘都市トウキョウとは、そう言う街なのだ。
「ルカッ」
空虚へと変わった街が展開を始める。
鳴り響いた地鳴りは戦闘都市へとトウキョウが変貌を遂げる音である。そしてそこにデミウスの声が響いた。
彼に呼ばれたことで落雁の側を離れて行くルカ。代わりに彼の元へと近付いてやって来たのは鹿子だ。
「……ルカっつうのか、あの女」
「たわけっ、妾がおるのに他の女子の尻など追っかけるなっ」
「おい、クソアマッ」
寄ってきては飛び付こうとしてくる鹿子の顔面を手のひらで鷲掴みにし迎撃した落雁は、尚も暴れる彼女を押し退けながらデミウスの方へと向かうルカの背中に声を掛けた。
少なくともルカの名を呼んでいるわけではないのだが、落雁がクソアマとそう呼ぶのは今のところ彼女だけである。
不本意であろうがルカ自身もそのことを分かっているようで、立ち止まると徐に落雁の方へと半身を引いて振り返るとムッとした顔つきをして彼を睨んだ。
「……何か」
「オレの顔面に踵叩き込んでくれたこの借りは必ず返す、必ずだ。オレは道明寺落雁、テメェを泣かせる野郎の名前だ。覚えとけよ、このクソアマ」
「……」
片方の鼻腔を親指で押さえ、そこから奥に詰まった血の塊を排出するのを交互に繰り返しながら、最後には血塗れた凶暴な笑みを携え一方的にそう言って退ける落雁。
彼に対して当のルカはと云えばふいと顔を逸らし、再びデミウスの方へと歩み出してしまう。
しかし落雁はあくまで逆襲の宣告を叩き付けただけでありそれでも構わず、手へと噛み付いた鹿子を怒鳴り付け振り払おうと腕を振り回す。もうルカに対する敵意は彼には無かった。
「……ルカだ」
「いてェってンだ――って、あン……?」
「私の名だ、ルカ。覚えておく必要は無いぞ、狂犬」
デミウスの元へと辿り着き、そして振り返りながら不意に開かれたルカの口が紡いだ言葉。
鹿子を抑え込むために騒いでいて聞き逃した落雁が鹿子からルカへと視線を移し聞き直す無いし怪訝な表情をして見せると彼女は律儀にももう一度彼にそれを言ってみせる。名前であった。
それを理解し、すれば鼻を鳴らし笑った落雁は右腕にかじり付く鹿子をぶら下げたまま彼女と対峙する。
「ああ、覚えねえ。けどな――刻んだぜ」
ルカとは己を足蹴にした女の名で間違いない。
落雁は顔面に受けた蹴りの味、屈辱のその味こそを覚え借りとする。
そしてルカという名は記憶に代わり胸の刻む。心とか、魂と云うそうな、そんなものに刻み込む。
記憶ではいずれ忘れるか、多くの別の記憶に埋もれ思い出せなくなることもあるだろう。
しかしそこに刻まれたものはその限りでは無い。
少なくとも落雁という男にとっては。
「――鹿子ォッ」
「オウッ!?」
そんな中、己を無視し他の女と仲良くなどする落雁に対し彼女もまた怒りの炎を燃やしていた。鹿子である。
幾ら手に、腕に噛み付こうとも反応を見せなくなった落雁に彼女の心配と焦燥は嫉妬に灯った赤黒い炎と化し、ならばと彼の腕を伝い背中へ這う虫の様に移動した鹿子。
彼女はやがて落雁のうなじへと跨がり、彼の頭を両腕で押さえ付けるとその脳天へと向けて開いた大口と、そこから覗く白い歯を閃かせた。
ガブリと一発、痛いのをお見舞いしてやる――そう胸中意気込んで外れかけるほどに開かれた顎を叩き付けんと鹿子がした時である、突如上げられた咆哮が如き落雁の呼び声に驚いた彼女は咄嗟の返事で奇声を発してしまう。
オマケに顎関節がぐきりと嫌な音を立て、閉じることが出来なくなってしまった。
「……さっさと逃げなクソアマ、オッサンもな」
「キミは、どうするんだい?」
「へっ、オレが逃げるわけねェだろ」
すっかり蚊帳の外にされてしまっていたデミウスであったが、ルカのついでとは言え落雁に呼んでもらえたことを嬉しそうにしているとそのルカに叱られてしまう。
そうしてから彼は改めて落雁に問う。
すると落雁は不敵に笑い、三人に背を向けた。その肩に必死に顎を元に戻そうと四苦八苦している鹿子を乗せたまま、彼女を振り回して。
「――来ォい! ステゴロォォオッ!!」
「んがあぁぁあっ!?」
遙か次元の向こう側へと届く落雁の呼び声に応え、朱き巨人は空より降り来たる。
その巨大な影がこの場の誰もを覆い隠し、降臨した巨塔の如き両足に大地が砕け激しく揺れ動いた。
「早く出てこい……早く、早くっ!」
「ハマノタケキイクサノカミ、起動。正常じゃっ」
「むしゃくしゃでめちゃくちゃにしてやる……!」
――そして現出したステゴロオーのコクピットでは、天球儀の内部で浮揚した鹿子が顎の関節を両手でなんとかはめ直し、涙目になりながら調子を見つつ、ホログラフィーを前に告げる。
彼女の前に背を向けて立ち、拳を打ち合わせた落雁が唸り声を上げた。既にトレースシステムの起動しているコクピットにはステゴロオーの周囲の映像が一面に投影されており、落雁の動作も機体に反映されている。
ステゴロオーの頭部に灯った二つの“眼”が碧く輝く。
それが睨み付けるのは上空に生じた時空の歪みである。