SCENE6 - 4
「ほう、――ならば、少し遊んでやろうか」
彼の口元が一層大きくつり上がり、右手で挑発をしてくる。
その気になれば今すぐにでも攻撃を仕掛ける事は可能だというのに、敢えてのその行動。余裕を見せつける為だろうが、そんなものに簡単に乗ったりはしない。遠ざかって行く足音を聞きながら、じりっと距離を測る。
周囲に渦巻いた冷気から、水の刃が生み出される。
「お手並み拝見と行こうか!」
吠えると同時に、刃は次々と春日を襲う。
自分が思い描いた通りに刃は軌跡を描き、人としては致命傷となり得る傷を、次々と春日に与える。
コートが破れ、血がしぶく。
が、彼は悠然とした態度を崩さぬまま笑う。
「こんなものか」
「何、小手調べというやつさ」
春日はその答えを軽く笑い、軽く後ずさった。
その行動の意味は何か。
答えに行き着くより先に、周囲に張りつめる異質な空気。
「――ワーディング! ……ユウキ!」
名前を呼ぶのと、春日の左腕が通り過ぎるのは、どちらが早かっただろうか。
何が起きているのか。認識して動くより先に、少年は伸びた腕に絡めとられ、引きずられるように春日の元へと引き寄せられていった。
有樹に抵抗の気配はない。春日のワーディングの影響下に置かれた為か、焦点の合わない目で虚空を見つめているようだった。
春日は手元に引き寄せた少年に満足そうな視線を落とす。
――と。
「“ディアボロス”、……と、リンド?!」
春日の更に向こうから、声が飛び込んできた。
その声には、聞き覚えがあった。
「キリ……!?」
黒い帽子をかぶり、緑の番傘を持った少女が、公園の入り口に立っていた。
少年を腕に抱いたままの春日も乱入者に視線を向け、舌打ちをした。
「追ってきたか――“死神機巧”」
その表情が憎々しげに歪む。
「貴様はいつもいつも……!」
向けられた敵意に、彼女は一瞬何を言われたのかと、困惑した顔をする。
彼女に戦闘の用意がないと認識した春日は、そのまま右手でコートの裾を広げる。
「さらばだ。追ってくればどうなるか……分かっているな?」
それだけを告げ、コートで呆けたままの有樹を包み込んでいく。
「ユウキ!」
水の刃を飛ばし、同時に飛びかかる。
が、そのコートは少年だけでなく春日自身も包み込み、水の刃は中身の無くなったコートを破るだけだった。
後に残されたのは、切り裂かれたコート唯一つ。
それもすぐにぼろぼろと崩れ、消えていく。
「ユウキ! ユウキ――!」
地面に力なく落ちたコートの残骸に飛びかかり、必死に呼びかける。
前足でどれだけ叩いても、コートを崩して土を付けるばかり。その向こうから返ってくるのも地面の感触のだけで。中に何か居る気配も見えない。
いつの間にか、ワーディングも解除されている。
アイツは何処へ消えた。
何処へ。
感覚を研ぎすませば、まだ近くに居るはず――。
「――ド、リンド!」
「!?」
呼ぶ声に、ハッとして顔を上げると、暗くなった空に同調するように、人影が見下ろしていた。
その影が帽子を押さえると、白い髪がちらりと揺れた。
「――キリ、か……」
「うん。リンド、大丈夫……?」
その言葉に、ふるりと首を振る。
「大丈夫なもんか。アイツを守ると約束した矢先にこれだ。俺は今すぐアイツを追いかけて、ユウキを――!」
「リンド」
その口調は、普段よりも少し強いものだった。
視線を上げると、彼女はしゃがみ込んでもう一度名を呼んだ。
「リンド。有樹君しか見えてないくらい大事だって気持ちは、よく分かるよ」
でもね、と霧緒は言葉を続ける。
「とりあえず落ち着いてよ。有樹君は、きっと助けられるから。ね?」
ゆったりと、穏やかに語る言葉が、リンドの苛立ちも次第に落ち着かせる。
「……ああ。動揺してたようだ」
すまない、と大人しく座ると、彼女はほっとしたような顔をした。
「本当に、リンドは有樹君が大事なんだね」
「まあ、な。――猫は同居人の安全を守るのが仕事なんだ。だから、ユウキは守らないといけない」
「そっか。じゃあ、次はしっかり守れるように頑張ろうね」
どこか言い聞かせるように、少しだけしっかりとした言葉で笑いかけてくる。
そのまま頭をそっと撫でられた。
「猫扱いするな」
「あはは、ごめんね」
つい、と彼女は手を離す。
「キリ」
「うん」
「俺は、ユウキは研究所に連れて行かれたと思っている」
お前はどう思う、と問いかけると、彼女もうん、と頷いた。
「試験の話もあったし、受験日は明日なんだよね。それなら、そこで間違いないと思うよ」
彼女の肯定を受けて、よし、と頷いた。
「俺は明日、ユウキを連れ戻しに行く。キリは……どうする?」
「ん。私も行くよ」
彼女もすぐに頷いた。
「この間話してたけど。私もね、大事な人がそこに居るかもしれないから……」
えっと、と少しだけ言葉を切って苦笑いする。
「その、独房に……入れられるかもしれないんだけどね」
「キリなら独房から抜け出すくらい、訳ないだろう」
「かなあ……。まあ、その時は頑張らないとね」
じっと見上げた彼女は、いつも見せるような表情だった。
こくりと頷いて、立ち上がる。
「じゃあ、俺は一度うちに帰る」
「そうだね。随分と暗くなってきちゃった」
いつの間にか、公園の街灯が煌々と灯って。日はとっくに暮れていた。
よいしょ、と立ち上がった霧緒は公園の入り口に数歩進んで「そうそう」と振り返った。
「さっき、猫扱いしないでって言ってたけど。リンドのその目的は、猫の仕事なんじゃないの?」
「同居人の安全を守る、か」
うん、と霧緒は頷く。
「キリは時々鋭いな。だが、猫扱いしても良いおおらかな気分の時と、猫扱いされたくないナーバスな気分の時があるのだ」
なるほどね、と頷いた霧緒は数歩戻ってきて隣に立った。
「今はナーバスなんだね」
「そう言う事だ」
「でも」
ふわりと彼女がしゃがみ込み、足が浮いた。
「時にはナーバスだからこそ、猫の特権を使わないと」
そう言い終わるが早いか、彼女の腕の中にしっかりと抱かれていた。
「お、おい。こら。俺はちゃんと一人で……!」
歩けるから大丈夫だ、と軽くもがくが、細いくせに力のある腕はびくともしない。
「まあまあ、たまには良いじゃない」
ね、と彼女は優しく抱きとめたまま歩き出す。
その揺れはゆったりとして、どこか落ち着きを与える。
このまま当分、離してはくれなさそうだ。
溜息をついた。
「……好きにしたら良い」
「うん。じゃあ、お家まで送るよ」
どっち? と問う声にあっちだ、と答える。
そうして、明日への決意を確認した二人は、住宅地へと姿を消した。