SCENE6 - 1
家に帰って、もう一晩。
リンドは待ってみた。
だが、有樹は帰ってこなかった。
両親には「友達の所で勉強する」と言ってあるらしく、心配する様子はない。
両親は、有樹――即ち、この世界と――リンドの間にある溝には、まだ気付いていない。
ベッドの上で目を覚ましたリンドは、誰も居ない静かな部屋を見回す。
「ユウキ……」
誰も居ない部屋で気をもみながらうろつく。
今日は、帰ってくるだろうか? 話は、出来るだろうか?
そんな事を思いながらどれだけ部屋をうろついただろう。
思わず溜息をついた時、首にかかっていたモノを思い出した。
「――電話」
そうだ。電話だ。
連絡先さえ分かれば、話が出来る。
――が。
「ダメだ。連絡先が分からない」
ふるりと首を振る。
有樹は携帯電話を持っていただろうか?
そんな事すら分からない。
ならば、有樹の友人とやらはどうだろう?
家にでもかければ取り次いでもらえるかもしれない。
少年の部屋を出て居間へ降りると、両親が居た。
今日は何曜日だったろうか。
両親が居るという事は、休日なのだろう。
そっと部屋の中へと入る。
この家に居た頃、子供部屋以外で喋る事は殆どなかった。それはいつの間にか癖として染み込んでいたらしい。口を噤んだまま、母親の足元へ寄り添う。
「あらリンド。どうしたの?」
気付いた母親が微笑みながら問いかけてくる。
リンドの記憶の中で、両親は自分が喋れるという事を知らない。
だが、有樹は先日、朝食の席で「夕べから静かだ」と言っていた。
きっと、知っているのだろう。
「チチ、ハハ。ユウキの行き先を知ってるか?」
「あら。有樹なら佐藤君の家に居るって言ってたわよ」
「ふむ。そのサトウという家の電話番号は分かるか?」
「佐藤君のお宅は……いくつだったかしら」
母親は少し考えて、電話の子機を手に取る。
「確か有樹がこれに……ああ、あったわ」
ボタンを何度か操作し、「はい」とリンドの目の高さまで下ろしてきた。
「この番号が、佐藤君のお宅よ」
子機の小さな画面に並ぶ、十一桁の数字。
それを少し眺めて暗記する。
「ありがとう」
それだけ言って背を向けると、母親は「はい」と穏やかな声で子機を元の場所へとしまった。
部屋に戻って、リンドは少しだけ首をひねるようにして、首輪についていたボタンを押す。音声ガイダンスが流れ、暗記した番号を暗唱する。
「ツカサもたまには良い事をする」
ぴこぴこと認識される音と少しのノイズの後、コール音が響いた。
しばらく待つと。「はい?」と少年らしい声が聞こえた。
「浅島家に居候しているリンドと言う者だが、ユウキは居るか?」
「リンド……って」
少しの間。
そして、相手が息をのんだのが分かった。
「あ。あの……猫の?」
声色が少しうわずっている。
「そうだ。ユウキの同居猫だ」
「は、はい」
声からは緊張がとても伝わってくる。
先程話をした母親には見られなかった反応だが、今はそれを気にしている場合ではない。
「あ、あの有樹は……いえ、有樹くんは、いやいや、浅島さんは、今、ちょっと居なくて……」
「ほう。居ないのか」
「あ。はい……」
「じゃあ、今何処に居る?」
「いえ、僕は……、その、詳しい事は……」
どうも要領を得ない。
怯えているのか、口止めでもされているのか。
いや、どちらかと言えば、オーヴァードという存在に対しての反応に見えなくもない。下手に何か言うと後が恐い。そう言うものだろうか。
「サトウ。怖がらなくて良い。電話の向こうにどうこう出来たりもしない。だから落ち着いて答えてくれ」
「え。あ……」
「とりあえず、深呼吸をしろ」
はい、と小さな声の返事と、受話器から少し離れる音がした。
そしてすぐに電話口へ戻ってきた。
「落ち着いたか?」
「はい。すみません」
「謝らなくて良い。俺が聞きたいのは、ユウキの事だけだ」
「有樹の、こと」
そうだ、と頷く。
「有樹くんは……昨日の夜まで僕の家に来てました」
「ふむ」
「それで、勉強と――少し、話をしたりして。お昼くらいに、家を出ました」
時計をちらりと見上げる。もう昼はとっくに過ぎていた。
「ここにはまだ帰ってきていない」
電話の向こうで、はい、と小さく頷く声がした。
「有樹くんは、ケンカをして家出してきたって言ってました。だから……家には居辛くて、すぐに帰らないの、かもしれません」
「そうか……分かった」
ではな、と電話の通話ボタンを切ろうと前足を伸ばす。
「あ、あの」
ぴたり、と足を止めた。
「うん?」
「有樹くんに……その、オーヴァードになるなって言った……って、本当ですか?」
「……ああ」
言った、と言うべきかどうか、少しだけ躊躇う。
だが、ここで黙っていても仕方ない。
「確かに言った」
「どうして、ですか?」
どうして。
こいつは何故そのような事を聞くのか。
そんな疑問はすぐに溶けた。
「あいつ、リンドと一緒になれる、って凄く喜んでたのに」
「――!」
思わず息をのむ。
ユウキは。アイツはそんな事で喜んでいたのというのか。
だが。それではいけないのだ。
ふるふると首を振る。相手に見えていないのは承知の上だ。
「自分がオーヴァードだからこそ、言える事がある。それはいくつもあるが……一つだけ言うなら、オーヴァードになって良い事があるなんてのは妄言だ。俺はそう思う」
それに対する少年の言葉は簡潔だった。
「嘘だ」
「嘘なもんか」
電話の向こうで、だって、とぎこちなくも力のこもった声がする。
「だってあなたは、有樹と話しをしてるじゃないか」
ああ、そうだ。と心の中で頷く。
俺がユウキと出会い、共に居たのは俺がオーヴァードだったからだ。
だが。
「……俺は、普通の猫でも良かったよ。ユウキの傍で、時折構ってやって。机の上で丸くなって勉強の邪魔をするような、普通の猫で」
ああ、それでも良かったのだ。
今更この感情に気付くなんて、と己に呆れを感じる。
同居人を守るのは猫の役目だ。
言葉など介さなくても。この家に。ユウキの傍に居られたなら。それで良かったのだ。
その言葉に偽りはない。
そして、電話の向こうも黙っている。
今の言葉で納得した、という訳ではないだろう。だが、それ以上口出しするつもりもないようだった。
「――その」
先に沈黙を破ったのは少年だった。
「すいませんでした。――え、えと。あの。今言ったの、俺の勝手なんで……」
親父とかには、と言い辛そうにもごもごと口の中で言葉が詰まっている。
「そんな心配要らない。誰にも話すつもりは無い」
そう言ってやると、少しだけほっとしたような空気が伝わってきた。
「さっき言った事だが」
「は、はい」
「納得してもらえないのは分かっているつもりだ。他より優れた能力を持つ事が、羨望に繋がるという事も知っている」
だけどな、と呟くように続ける。
「なってみるとそんなもんなんだ」
電話の向こうの少年はしばらくの沈黙の後、小さく「はい」と頷いた。
「その、失礼しました」
もういいですか? と少年は言う。
「ああ、済まなかった」
ではな、と、今度こそ通話を切れば、部屋には静寂が満ちていた。
はあ、と一つ溜息をついてみても、それは揺らがない。
とりあえず、有樹が家へ帰ろうとしているのは分かった。
それならばここで待っても構わないだろうが、いつになるか分かったもんじゃない。
外へ出た方が、早く出会えるだろう。
たとえ何処かですれ違っても、夜になったらきっと家に居るだろう。
「まだ怒ってるだろうか……」
少しだけそんな事を考える。
思ったより頑固な面があるのは知っている。
だが、そんな面を知っているからこそ、出来る話もあったのだ。
「……うん、探しに行こう」
誰に言う訳でもなく頷いて、家を後にした。