SCENE3 - 7
「分かっているな?」
彼に後ろから声をかけたのは、背の高い男だった。
振り向いた青年――水原は、その姿にぎょっとして、戦き、後ずさる。
「春日……恭二」
見た事がある。否、この国で彼を知らない者など居ない。
FH日本支部の最高権力者。――“悪魔”の名と顔を。
「貴様は分かっていたはずだ。UGNエージェントを匿うという事が、どのような結果を招くか」
そう語りかける声に、水原は蒼白な顔のまま、必死に否定する。
「違う……違う! 彼女は確かに追われていたけど、でも、」
掠れる声を必死に上げる。
彼女は何も言わなかったのだ。
どうして追われていたのかも。
姿を消していた一年の事も。
髪がすっかり白くなっていた訳も。
オーヴァードであった事すらも。
「彼女は、ジャーム主義者なんかじゃ」
「いいや」
男――春日は、水原の言葉を低く静かに遮った。
「確かなんだよ。彼女は間違いなく。この世界に毒を撒く、危険なテロリストだ」
「……ちが」
「何より、貴様の俺に対するその怯えこそが、真実を証明している」
彼は大きく手を広げ、演説でも始めるかのような声で語る。
「知っていたのだろう? 彼女がオーヴァードである事を」
確かに。確かに気付いていた。だが、彼女は一度だって自分の前では力を使わなかった。
その沈黙に肯定を汲み取った春日は、更に声を上げる。
「貴様は彼女から何を聞いた?」
水原はその視線に射竦められる。
「オーヴァード社会の問題点? この世界の真実? ジャームの危険性? ――さあ、貴様は何処まで聞いたのだろう? そして、それを誰に話したんだろう?」
春日の唇がつり上がり、眼鏡の奥で光るその目にも獰猛な笑みが浮かぶ。
足がすくんで動けなくなった水原の目に、鉤爪を生やした腕が映る。
「守らないとなあ? この世界を」
少しでも触れれば切り裂かれそうな爪が、水原へと延びる。
動けない。
オーヴァードと一般人の、圧倒的なまでの差。
戦力の差でも、知恵の差でもない。
ただの、存在の差。
それだけで、身体が動かなくなるという、決定的な否定。
動けない喉元に、彼の爪がかかり――。
「――そのような世界、私が壊して差し上げます」
そんな声と共に巨大な黒い鎌がその腕を両断した。
それが、水原が見た最後の光景だった。
□ ■ □
みあが帰って、しばらく。
もう時計は夕方を指しているのに、水原は帰ってこなかった。
「遅いな……」
時計を見上げて呟いてみても、それで何かが変わる訳でもない。
五分、十分、一時間と過ぎても、帰ってくる気配はない。
話がどの位かかるか分からないから、どこかで時間を潰しているのだろうか?
もう話も終わったし、外も暗くなってきた。
探しに行ってみよう、と身支度をして外に出ることにした。
近所のスーパーにコンビニ、途中で見かけた喫茶店。
一通り見て回ったが、影も見つけられなかった。
「あれ……どっかで行き違ったかな……」
家まで引き返す。
誰も居ない。
――見つかるのは時間の問題だったのよ。
みあの言葉が、蘇る。
まさか。
まさか彼は、何かに巻き込まれたのだろうか?
時間の問題だった、彼女は言っていた。それがこんなにも早いとは、なんて甘過ぎる考えなのは分かってる。
ううん、と首を振って、最悪の考えを追い出して、思いつく限りを探して回る。
日が沈んで、辺りが真っ暗になるまで方々探し回ってみたが。
ただの行き違いだという、微かな希望すら否定するように、彼はどこにも居なかった。
とっくに日付の変わっていた部屋で、考える。
どうして彼は帰ってこない――いや、姿を消したのか。
もし、何かに巻き込まれたのなら。原因は自分以外に思いつかなかった。
水原さんは、普通の人だ。
そんな所に自分が転がり込んだから。
やっぱり、あの時に全力で断っておけば良かったんだ。
そうで無くても、早々にここを立ち去るべきだったんだ。
と。そんな後悔したって、もう遅い。
彼を、探さなくてはいけない。
決意するように口を結んで、鞄から携帯を取り出し――ぱちり、と瞬きをした。
「……?」
その小さな画面には、着信履歴の表示があった。
画面を開いて見てみたが、登録されていない番号らしく、相手の名前はない。
「誰、かな……」
着信があった時間も、そんなに前ではなかった。
かけ直すボタンを押して呼び出し音に耳を澄ましていると、数コールもしないうちにその音は途切れ。
「もしもし?」
聞き覚えのある少年の声がした。
「あ……河野辺さん、ですか?」
確認するように口にしたその名前に、電話の相手は「うん」と頷く。
「その声だと無事そうだね。それで。調子はどう? 手詰ってる?」
司の気楽そうな質問に、思わず呻くように黙る。
彼の言う通り、ここ数日の情報収集は手詰まりに近かった。
この世界の事。姉と事故の事。
今日はそれだけじゃなくて、水原さんの行方まで分からなくなってしまった。
気になる事は沢山ある。しかし、この世界でUGNはあまりにも力を失っていた。
マトモに連絡もとれず、調べられた事など殆どなかった。
「えっと……そう、ですね」
なんて曖昧な肯定にも、電話の声は変わらない。
「少しなら調べられそうだけど、手伝いは要る?」
「……お願いしても、良いですか?」
決断は、早かった。
一人で詰まっていたって、仕方がない事だと言うのは十分に分かっていた。
「OK。何を調べる?」
えっと、と少しだけ考える。
「では……一年前の事故について」
「事故?」
鸚鵡返しの言葉に、はい、と頷いて詳細を伝える。
「その事故で亡くなった人が居るんですが。その人が……」
「霧ちゃんの記憶では生きてるはず?」
続いた言葉を肯定すると、ふうん、と簡単な相槌が返ってきた。
「他に分かってる事は?」
「トラックに轢かれたと、聞いています。ああ。それから……その人の名前、ですね」
まだ信じたくない気持ちが残っているのか、少しだけ息を止め、ゆっくりと瞬きをして。
「深堀、紫と言います」
はっきりと、言い切った。
「紫さん、ね。了解。調べてみるよ」
「お願いします」
うん、という返事で切れるかと思った電話の声は「それで」と続いた。
「霧ちゃんは明日の夕方とか空いてる?」
「え?」
思わず聞き返す。が、司はさも当然のように「情報、渡さないといけないでしょ」と言った。
「明日の夕方、ですか」
大丈夫ですけど、と頭の中で予定を組み立てる。
「じゃ、それまでに情報調べとくから。場所は……そうだな。俺の行きつけの喫茶店があるからそこで。場所は後で地図送るから」
「はい」
頷いた霧緒は、最後にもう一度だけ、口を開いた。
「河野辺さん」
「ん?」
「その。よろしく、お願いします」
「うん。それじゃあ」
また明日、という確認を最後に。
今度こそ電話は切れた。