SCENE3 - 3
あの日。本をまとめて出て行った有樹少年は、リンドが部屋を出て探し回っている間に荷物をまとめてまた出掛けたらしかった。
それから二日、三日と経ったが。
彼は、帰ってこない。
少年が帰ってこないか、という期待を込めて居座る塀の上。
冷たい風と暖かな日差しがせめぎあうその場所で、リンドは少年の事を考える。
リンドだって、彼の友好関係をそこまで知っている訳ではない。
この世界なら、尚更だ。
把握している少年の事と言えば。
オーヴァードの覚醒試験を受けようとしている事。
その為に、勉強をしている事。
その位だった。
「そういえば、覚醒試験とはどのような物なのだろうか……」
オーヴァードに覚醒するのに、試験も何もないはずだが。
一体、何なのだろうか?
それはきっと、それを実施しているという組織に訊いてみるのが早いだろう。
「FHにツテがあるとしたら」
一人だな、と呟く。
アイツが何処に居るのかは分からないが、とりあえず支部に行ってみれば何か分かるに違いない。
「行ってみよう」
うむ、と一つ頷いて、リンドは塀を飛び降りた。
□ ■ □
FH支部前。
ここに来るのはあの日以来だな、と少しだけ思い返す。
そういえば、ミアやキリはどうしただろうか?
「まあ、あの二人の事だ、きっと無事だろう」
なんならツカサに訊いてみれば分かるかもしれない。
そんな事を考えながら、人の出入りが見える植木の影に身を隠すようにして丸くなる。
そうして何人もの人の出入りを眺め続ける事しばらく。
「何この猫」
そう言いながら植木を覗き込んだのは、一人の女性。
声にちらりと視線を上げると、明るめの色をしたジャケットに、薄いウェーブの髪が揺れているのが見えた。
「野良猫では?」
近くに誰か居るのか、そんな声もする。
「そうかもね……。んー、あ」
ちょっと待って、と彼女はハンドバッグからサングラスを取り出し、レンズを通してリンドを眺める。
「うーん。侵蝕率……55%かあ。微妙なラインね」
そう呟いて外したサングラスは、ウイルスの侵蝕率を数値化してみせるチェッカーらしい。
「……レネゲイドチェッカーか。変哲の無い猫にまでかけるとは、推察力が高い」
「あら喋った。レアね」
興味津々な彼女の言葉には答えず、茂みから立ち上がる。
「しかも二足歩行まで出来るなんて興味深いわ」
「……どうしたよ?」
まじまじとこちらを見る女性に、先程の物とは違う声がかかる。他にも誰かが居たらしい。
「ん。なんか猫がこんな所で用事ありげに隠れてるから。なにかな、って」
「ふーん。猫、ねえ。用事ありげに隠れてるとか、あからさまに不自然なんだけど……」
サングラスを鞄にしまう女性の横から、同じようにこちらを覗き込んだ影と目が合った。
ぱちり、とお互い瞬きをする。
「……ああ。この猫知ってるわ」
そう言いながらこちらを指したのは、司だった。
「飼い猫の知り合い。もとい、知り合いの飼い猫だったような」
「何言ってるか分からないわよ」
「まあ、知ってる猫だって事だ。久しぶりだなリンド。生きてた?」
「ツカサも相変わらず人生つまらなさそうな顔していて重畳だ」
「――それで、司。この猫は?」
隣に居た女性が司をつついたのが見えたので、司が答えるより先に口を開いた。
「リンドだ。ツカサが一緒に居るなら、俺を捕まえて焼き猫にすることも無いだろう」
「いや待てリンド。実験体にはされるかもしれないぞ?」
さっき侵蝕率確認してたし、と司が軽口を叩く。
「司、知ってる? 非オーヴァードも侵蝕率は0%じゃないのよ?」
「そうなん?」
「当たり前でしょ?」
と、その女性はさらりと肯定した。
「覚醒してないだけで感染してたり、ウイルスを保持している可能性だってあるんだから。――もっとも、本人が明かすか、精密検査しないと覚醒してるかどうかは分からないけど」
へえ、と司がリンドを見下ろしてにやりと笑った。
「カマかけられたな。リンド」
「なに、構わんさ――どうせ自己紹介は必要だったろう?」
何食わぬ顔でそう言った猫へと視線を下ろして、彼女は「そうね」と小さく笑った。
「それじゃ、私も。私は諏訪末利。ここの職員、てとこかな」
職場は京王線で20分くらい先だけど、と彼女は付け足す。
「マツリか。不躾ついでに尋ねたい事がある」
「ん、何かしら」
「FHの覚醒試験とやらの詳細を知りたい」
その質問に、司は呆れた表情をして、末利はふむと小さく答えた。
「それはここで質問して期待できる回答内容でいいの? であれば、そこの受付にでも言って若い子にパンフレットもらってちょうだい」
他に聞きたい事があるなら答えるけど? という末利に、リンドも考え込む仕草をする。
「そうだな、聞きたい事が他にも――」
「なあ」
リンドの言葉を中断させたのは、司の溜息のような一声。
その場に居た全員の視線が集まった彼は「とりあえず」と小さく息をついた。
「会話するならどっか喫茶店でも入ろうぜ。座りたい」
「……そうだな。そうしよう」
リンドが同意すると、末利も「ま、良いわ」と頷いた。
「じゃ、いらっしゃい。猫大丈夫なお店に連れて行ってあげる。司もお腹空いてるでしょ?」
末利は踵を返して、繁華街へと足を向け。司は「おう」と軽く返事をしてついて行き――ふと、真面目な顔で呟いた。
「猫大丈夫な店なんてあるんだ」
その存在に悩ましい事などなさそうな物だが、司はなんだか悩んでいる様子だ。茂みから司の肩へと身軽に移動して、その悩みに答えてやる。
「最近流行ってるぞ。猫カフェ」
「……マジか」
「といっても、店内を猫が闊歩する店だが」
「え。そんなのあるのか……」
司の中ではとても画期的な概念だったらしい。うむ、と神妙な顔で彼の言葉を肯定すると、末利が背を向けたままくすくすと笑った。
「ふふ。やっぱりみあの友達……の友達ね。ホントに知らないんだ」
「うん? 何を?」
首を傾げる司に、末利は答える。
「一年くらい前からね、増えたのよ。身体から毛が生えてても、腕が沢山あってもいい店が、ね」
そう説明する表情は見えないが、声色は少しだけ硬いような、僅かに諦めを帯びたようにも聞こえた。