SCENE2 - 8
「――なあ」
「うん?」
なに、と少年は呟くように答える。
「今、楽しいか?」
「……楽しくなーい!」
机の上にある本の山を示し、机に突っ伏すようにして頭を抱える。
けどさ、と腕の隙間から声が漏れる。
「受かったらその後は楽できるんだから、頑張るしかないだろ」
拗ねたようなその声に、リンドは小さく笑う。
「はは。FHに入ると楽になるんだ?」
「そりゃあそうだよ」
伏せた視線を天井まで上げて、吐くように答える。
「オーヴァードだったら就職活動なんてしなくても引っ張りだこだし、給料だって桁違いなんだぜ」
はあ、と一段と大きな溜息をついて。
「猫には関係ないかもしれないけどさ」
そう言う声は。人間が猫に抱く羨ましさと同じ響きを持っていたが、少しだけ辛そうに聞こえた。
「――そう、だな」
ぽつりと呟き、ふるふると首を振った。
「ユウキ」
呼びかけた声に降りてきた視線の前で、リンドはなんとか笑ってみせる。
「――レネゲイド学、だったか? 少し位なら教えられる、と思う」
見えてくれ、と手を小さく招くと、少年は「ん」と本をリンドの前に広げてくれた。
爪を上手く引っかけて、ページを捲る。
内容はそう難しい物ではなかった。
リンドがこれまでに仲間達から学んだり、経験した事と大差ない。
子供にも理解が出来るよう噛み砕きながら、オーヴァードが使用する能力を、シンドロームとそれぞれが得意とする分野に系統立てて分類し、どう活用しているか等が記されている。
だが。いくら読み進めても一向に出てこない、致命的に足りない情報があった。
オーヴァードは力を行使する事でレネゲイドウイルスに侵蝕されていく。その度合いを示す「侵蝕率」。
力を行使し続けてウイルスに侵蝕された結果――侵蝕率が人の耐えられる値を大きく超えた状態のまま、理性を失い暴走する、オーヴァードの成れの果てである「ジャーム」。
この二つに関する記述が、何処にも存在しなかった。
ただ、覚醒した人間に何が出来るか。それだけを丁寧に書いている。
「……」
読むのをやめた文面を、じっと見つめる。
「ユウキ。教える前に一つ聞きたい」
「何?」
本を読み進めるリンドをじっと見ていた有樹は、話の続きを促す。
「ユウキは、ジャームについては知っているか?」
「……なんだって?」
有樹が顔をしかめて聞き返す。
「ジャーム、という言葉についてだ。……いや、知らなければ別に良いんだが」
有樹はうーん、としばらく考える。
「知らない……あ。いや」
ちょっと待って、と机の上にある本の山から一冊引き抜いてパラパラと開く。
「――あった。これだ。……“ジャーム主義者”」
何だと、と顔を上げたリンドの様子に気付く事無く、有樹は文面を読み上げる。
「オーヴァード排斥団体の俗称。オーヴァードは精神に異常を来した人々であり、積極的に犯罪行為に手を染めるようになる、という差別思想を持った人々。代表的な組織として、テロ組織“UGN”などが挙げられる……これの事? ねえ。リンド……?」
有樹が読み上げたその説明に、リンドは頭を抱えたくなった。
その衝動をぐっと堪えて、口を開く。
「……お前の持っている本には書いてないかもしれないが、俺の故郷ではジャームについてこんな話があった」
さっき読んでいた本のページから視線を上げ、ぱちりと瞬きをした有樹の目を真直ぐに見る。
「ジャームってのは、オーヴァードとしての力を使い過ぎた奴の事だ。その状態になったら、もう戻る事は出来ない」
「……」
「人との関わりを持てず、時には知性や理性を失った獣として生きるしかないんだ。……オーヴァードには、そういう危うい一面もある」
これは確かな事だ、と静かに話を閉じると、有樹は一層顔をしかめた。
その目は、明らかに今の話を信じていなかった。
「なんか……そういう言い方をするって、書いてある通りだ」
「? ……そういう言い方、UGNが、か?」
「うん」
きっぱりと頷く有樹から、そっと目を逸らす。
「……俺の居た所にはUGNもFHもなかった。だからかもしれないな」
そう言ったものの、それで有樹が納得してくれる訳はなかった。
目を逸らしても分かる程に彼の視線はますます険しくなり、半ば睨みつけられているようだった。
「……やっぱり、一緒に勉強できないみたい」
諦めたようにそう告げて、本を数冊鞄に詰め、部屋を出て行く。
「出掛けてくる」
「ユウキ……!」
追い縋ろうとした声に、ドアの閉まる音が拒絶するように重なる。
とんとんと階段を下りて行く音に、首を振って溜息をつく。
「はぁ……。なんていう現代だろう」
ぼやいても、答える者は居ない。猫一匹の部屋を静寂が包むばかりだ。
しかし。
「――見捨てるのか?」
溜息をつく猫の部屋に、どこからともなく声が響いた。
風に乗ってやってきたような、掠れた少年の声に、リンドは身構える。
「誰だ!?」
見回しても、気配を探っても、誰も居ない。先程まで聞こえていた、外の小さな音も聞こえない。
そんな部屋の中で警戒するリンドの問いに答えはなく、ただ、声は続く。
「お前の言葉は真実だろう? 目の前に破滅があると分かっていて、お前は何もしないのか。相手が受け入れないという、ただそれだけの理由で諦めるのか?」
静かに語りかけるような問いに、リンドは唸る。
「……何者か知らないが、そんな心算はないさ。これからだってユウキには真実を告げていく」
絶対に、と言葉を繋ぐ
「ユウキの幸せはFHには無いって、俺は知っているんだから」
力強く言い切ったその声に、音もなく空気が小さく震えた。
声の主は、笑ったようだった。
「では次の問いだ。その真実の先に、幸せはあるか?」
幸せ。ユウキの幸せは、何処にあるのか。
このままの未来か。それとも。
悩むまでもない。
「幸せなんて比較でしかないさ。ジャームについて知らないでいる方が“比較して”不幸だってだけだ」
「お前の言葉は真実だと言ったぞ?」
声は更に続く。
「真実であることを前提にして。その情報を隠蔽することで回っているこの世界が、真実を知る者を受け入れると思うのか?」
「それは分からない」
ふるりと首を振り、だけど、とどこに居るのか分からない声を睨む。
「あんたの言うように、俺は真実を知ってるんだ。その真実に目を逸らして安逸をむさぼっていても、居心地が悪い」
たとえ、その真実が救いの無いものだったとしても。
この世界に、受け入れられないものであっても。
「世界に受け入れられなくても、不自由なまま生きるよりはずっといい。いくらでも、立ち向かってやるさ」
「己を受け入れない世界と、戦う覚悟があると――?」
試すような声。それにもリンドは迷い無く答える。
「必要とあらば、な」
どうやら必要そうだが、と首を振って付け足す。
声の主は何を感じたのか、そのまま語りかける事はなく。
いつの間にか、部屋の静寂と外の微かな喧噪も戻ってきていた。
「……名前を聞きそびれたな」
あの声は、一体誰なのか。
分からない事が増えたな、とリンドは溜息をつく。
だが、今はそれよりも。
「……ユウキを、探しに行こう」
一人外に飛び出した同居人を、追わなくては。
覚醒試験なんて馬鹿な物、やめさせなくてはならない。
「……アイツは意外と意地を張る事があるからな」
そう簡単に話を聞いてくれないかもしれないし、そもそもさっき怒らせてしまったばかりだ。
それでも。真実を、伝えたい。
そう決心して、リンドもまたドアの外へと飛び出した。