SCENE2 - 5
「深堀君」
その声に振り返る。
声の主は、姿を見るまでもない。水原さんだ。
仕事帰りなのか、スーツの上着と鞄を手にして立っている。
たまたま見かけて、声をかけたのだろう。
そして、その声に振り向いたのは自分だけではなかった。
「水原さん!」
嬉しそうに彼の名前を呼んだのは、隣に居たもう一人の人物。
軽い足取りで駆けて行く、自分に良く似た後ろ姿。制服の背中で軽く揺れるのは、緩く巻いた黒髪。
ああ、彼が呼んだのは彼女――双子の姉さんだ。
ほんのちょっとの期待はあっという間にしぼんで、後を追うように一歩を踏み出す。
はしゃぐ姉と、彼女に微笑みかける彼。
二人が並んでいる姿を見るのは、なんだか幸せだ。
好きな人なのに、変なの。と思わない事もないけれど。二人にはこうして笑っていて欲しい、というも正直な気持ちだ。
「――ね、良い考えだと思うの」
近付くと、姉さんのそんな声が聞こえてくる。
何を話しているのかは、すぐに分かった。
水原さんの「深堀君」という呼び名では、私と姉さんで見分けがつかないという話だ。
「次に会ったら、名前で呼んでもらうようにするの」
そんな風に意気込んでいたっけ。なんて思いながら足を進める。
でも、水原さんは少し戸惑っているようだった。
普段から人を苗字で呼ぶのが常の彼だから。きっと、名前で呼ぶのに慣れないのだろう。
しかも、相手は随分と年下の女の子だ。
「もう、姉さん。無理言っちゃダメだよ」
そっと声をかけると、姉さんは少しだけ口を尖らせて「でも」と呟いた。
「苗字だったら私も霧ちゃんも振り向いちゃうんだし、ちゃんとどっちが呼ばれてるのか分かる方が良いじゃない?」
それは、確かにそうだけど。と水原さんに視線を向けると、ちょっとだけ苦笑いをしていた。でも、嫌がっている訳ではないらしい。姉を見下ろす目は、やっぱり優しい。
「ね、私も和樹さんって呼ぶから。ね」
いいでしょ? と笑う姉さんに、水原さんは仕方ないな、と笑って――。
――。
天井が見えた。
「あ……夢、か」
急激に現実味がなくなった風景を思い返しながら、何度か瞬きをする。
現実味がない、といっても、霧緒も実際にその風景を見た事はなかった。
私なんかより活発で明るい姉さんの事だ。名前で呼んでもらうんだ、と意気込んでたのは確かだし、水原さんも――。
夢と現実の違いを確かめながら布団にもそり、と潜ろうとして、気付く。
この布団は。自分の物ではない。
ついこの間まで宿泊していた、ヴェネツィアの宿でもない。
ええと。とどこかぼんやりした頭で状況を把握する。
日本に戻ってきて。追いかけられて。
水原さんに助けてもらって。そのまま、行く場所がなかった自分を泊めてくれるという言葉に甘え、この家へとお邪魔して。自分は毛布だけあればいいと散々言ったのに、少しも聞いてくれないで。結局この部屋に放り込まれて……。
「……っ!」
そこまで思い出して、跳ね起きた。
これは、水原さんの布団で。
勿論、彼の家で。
夢なんか、どうでもいいじゃない。疲れていたとはいえ、ぐっすり寝すぎ……! と自分に文句を言いながら、いそいそと布団を出て着替える。
寝間着として借りていた服をたたみながら、頭では色んな事が過ぎる。
昨夜自分がこの部屋に通されてから、彼が来た覚えはない。
と、言う事はリビングにあったソファ……だろうか?
あそこで、一晩過ごしたのだろうか?
暖かな毛布と暖房があるとはいえ、まだまだ寒さが緩む頃ではない。
風邪をひかせてしまってはいけない、とドアを開けると。なんか、いい匂いがした。
添え付けの小さなキッチンから聞こえるのは、何かの焼ける音。
覗いてみると、そこには朝食を準備する水原の姿があった。
「おはよう、ございます」
そっと声をかけると、彼はフライパンを片手に振り向いた。
「うん、おはよう」
良く眠れた? と言いながら、テーブルの皿に目玉焼きとベーコンを乗せている。
霧緒は、彼の言葉に顔を上げた。
「あ、はいっ。その、おかげさまで……」
ぐっすりと。という言葉はなんだか申し訳なくてごにょごにょと口の中で転がる。
「ん。それはよかった」
安心したようなその声は以前と変わらず、とても優しい。
そこに座ってて、と促されるままに小さなテーブルの前に座ると、目の前には二人分のトーストと目玉焼きが並んでいて。そこにコトン、と湯気の立つマグが置かれた。
「広い部屋だしね。君が来るのも久しぶりだし、散らかりっぱなしで申し訳ないけど」
そこは我慢してくれると嬉しいね、と少し照れたように頭を掻きながら、彼も朝食の席へとついて食事を勧める。
「いえいえこちらこそ突然にお邪魔してしまって……」
すみません、と慌てて頭を下げながらフォークを手にし——ふと、彼の言葉が引っかかった。
「……て、久しぶり?」
ですか? と顔を上げる。
確か最後に会ったのは、まだオーヴァードになる前の事。もう随分と会っていないのは確かだ。
それは、ここでも同じなんだろうか?
霧緒の疑問に、目の前の彼はトーストをかじりながら疑問そうな顔をした。