ENDING - 2
桜花が宿泊していた部屋の前は、どこよりも戦闘の跡が激しかった。
霧緒を追いかけてきたみあは、薄暗い廊下の奥で立ちすくむ彼女を見つけた。
「お姉ちゃん」
追いついた背中に声をかけるが、返事はない。
その反応に内心首を傾げながらも隣に並んだみあの目に入ってきたのは。
破れた壁紙。
幾人かの死体。
半壊したドア。
バラバラになった椅子と。
何か鋭く硬い何かに頭を貫かれたとしか思えない女性。
「……嘘」
そんな言葉が漏れた。
血に濡れて変色した着物。散らばる長い黒髪。
頭は原型こそとどめていないが、着ている服も、持ち物も。
間違いなく、あの少女――桜花だったものだった。
「何で……? ここで貴女が死ぬ筈は――」
そう。葛城桜花はここで。死ぬ筈のない人間だ。
にもかかわらず。彼女は死んでいる。蘇生のしようも無い程の傷で。
そう。この“事実”は”記録”と異なると、本能が告げる。
そして。
この“世界”も異なると――”記録”が世界を拒絶する。
「歴史が――世界が……変わる? そんな簡単に?」
「歴史が、変わる……?」
どういうことだ、と言うのは、追いついた司の声。
そうね、とみあは視線を落とす。
「それに答える前に。――ね。霧ちゃん」
柔らかくも重さを持ったその声に、霧緒の肩が小さく揺れた。
「この状況について、何か知ってたのなら。教えてくれるかしら?」
みあの声が、静かな廊下に響く。
全員の視線が、立ち尽くす霧緒の背中に向けられる。
誰も、何も言わず。ただ彼女の答えを待つ。
沈黙はどこか重かったが、その間は長くはなかった。
「――心当たりが、あって」
傘の柄をぎゅっと握りしめて、霧緒の小さな声がした。
「心当たり?」
どういうことだ、とリンドの尻尾がぱたりと揺れる。
それに応えたのは、彼の方に向き直るブーツの音。
誰とも合わせようとしない沈んだ視線は酷く辛そうだったが、その目に涙はなかった。
「ワーディングの対策をしていたのに、効果が無かった、という話は」
私が、と一度言葉を切り。
「私が、渋谷駅で護衛を担当していた部隊が、そうでした」
その一言を言うまでが苦しかったのか、小さく息をついた彼女はぽつぽつと語り始める。
《ワーディング》を受けた時の隊員達の反応を。その直後の惨状を。
時折躊躇うように言葉を飲み込み、詰まらせながらも淡々と。彼女が見た事実だけを述べていく。
全てを語り終えるのに、そう多くの言葉も時間も必要なかった。
「だから、もしかしたら、と思って……」
と、切った彼女の言葉を、みあは「なるほどね」と受け止めた。
「今の話からすると……俺らの相手はやっぱり、あの石とか異形って事か」
頭を掻きながら眉をひそめた司の言葉に、みあはこくん、と頷く。
「そう。あの船の話に戻るけれど、バルトは――ううん、あの紅い石は異邦人を集めていたわ。彼らの目的は、歴史を改変すること」
「歴史の改変って……一体何のために?」
「さあ。それはわからないわ」
でも。と言葉の漏れる唇が乾く。
自分の中にある記録を、歴史を。いともあっさり書き換えられ、否定されるというこの状況に、思わず視線が険しくなる。左手の指を押し当てるようにして唇を噛んでみても、漏れる声に苛立ちが混じる。
「この状況もきっと、同じ奴の仕業よ。……そうすると集められていた人達は一体……」
「そりゃ、アイゼンオルカはフェイク……いや、二重の策の方が正しいかもしれない」
ぶつぶつと考え込み始めた司とみあに、「もし」と小さな声が割り込む。
「もしもの話、ですけど」
と、霧緒が少しだけ顔を上げる。
「桜花さんに敵の情報を。白い異形にはワーディングが効かないという話をしておけば……何か対策ができたんでしょうか?」
その問いかけに、司が「いや」と即答で否定する。
「この時代に存在しない情報を残したら、本来取るべき行動からずれてその影響が出る。そうなったら、それこそ相手の思うツボだ」
「そう、ですね……」
どっちにしても、相手は俺達よりも上手だって事だ、とどこか苛立たしげな舌打ちが聞こえた。
そうしてまた、二人が考察に戻りかけたその時。
「――なあ」
と、声がかかった。
考えるのを中断して視線を向けた先で、リンドが小さく啼いた。
「兎も角……弔ってやろう。このままでは……やりきれない」
そう言って、冷え切った少女からそっと視線を外す。
「そうだね。弔って、あげないと」
霧緒も、沈んだままの声で頷く。
だが。みあは小さく首を振った。
「いいえ。まずは現場の検証が先よ」
リンドが不可解そうに首を捻り、みあへ疑問に満ちた視線を向ける。
霧緒は判るけれども解らないような、複雑な表情をした。
「コレをやった奴の手掛かりを掴まないと」
「それは尤もだが……」
手掛かりを掴んだからと言ってどうするのだ、とリンドは視線で問いかける。
「――俺はみあに賛成だ」
「ツカサ」
「俺達はあの石を持ってる。みあの話が本当ならば、俺達が対峙する相手も、コレだ」
言いながら、司は右腕の袖を捲る。
そこで静かに脈動するのは――小さな紅い“眼”だ。
「そもそも、俺達にはコレや異形についての情報が少なすぎる。――それはお前だって実感したばかりじゃないか?」
だから、ここで何か手に入るなら、そうしておきたい。そう言いながら司は袖を戻し、まだ何か言いたげなリンドを通り過ぎ――。
――どくん。
鼓動のような何かが響いた。
全員が表情を変え、視線を向けたその先は。司の右腕。
「チッ……! 今度は俺か!」
舌打ちをする司の腕で、紅い物質が脈動する。
それは次第に速度を増し、輝きを増し。廊下を。部屋を。光が届く全てを照らして四人を包み込んでいく。
そんな中、みあが弾かれたように動いた。
このまま飛ばされてしまえば、またバラバラになってしまう。
時代も、場所も。どこに行くのかすら分からない状態で、それは最も避けたい事態。
駆け足でリンドの首を掴み、司の腕へと抱きつき叫ぶ。
「霧ちゃん! 早く捕まって!」
「え――あ、うんっ」
みあの声で我に返った霧緒も慌てて駆け寄り、傘と共に抱きかかえるようにして司の腕をとる。
「とにかく離れるなよ!」
「――! ユウキ!」
一層紅く輝く光の中で。リンドが叫ぶ。
「あっ。こら、リンド!」
暴れないの! と腕に力を込めるが、リンドは少年の名を呼び、離れようともがく。
「ユウキ、ユウキも――!」
そんな、悲痛な叫びも虚しく。
四人は再び、時間の流れから消失した。
□ ■ □
気付くと、耳に音が戻っていた。
車の音。人の喧噪。横断歩道から流れる音楽。
耳慣れた音に目を開く。
青に変わる信号。行き交う人々。右折して行く車のウインカー。
そこは“現代”だった。
正確な年代は分からないが。
ここは確かに、超人兵士もナチスの陰謀もない、よく知った東京の町並み。
そして、目の前にある大きな建物は。
霧緒には馴染み深いはずの、UGN日本支部として利用されているビル。
彼らはまた、百年の時を跳躍した。
道行く人も。どこか埃っぽい空気も。やけに鮮やかな赤信号も。
こんなにも。こんなにもいつも通りの光景だと言うのに。
そこだけは、目の前のビルに掲げられた文字だけは。何かが違っていた。
これまで当たり障りの無い会社名が刻まれていたそこに、堂々と記されたその文字は。
「FH日本支部」
その文字が与える強烈なまでの違和感に。
全員が言葉を失い、東京の街角に立ち尽くしていた。