SCENE6 - 3
「――様、おかえりなさい。お仕事、お疲れ様でした」
青年が屋敷に戻ると、その帰りを少女が迎えた。
「ああ桜花くん。ただいま」
実直そうな青年は、広い屋敷で帰りを待っていた少女への労いもそこそこに、仕事の話を切り出した。
「慌ただしくて済まないが。少々厄介事を頼まれてはくれないだろうか」
「はい?」
外套を受け取ろうと差し出した両手を浮かせたまま小さく首を傾げる。が、青年の顔に疲労と苦悩の色を見て、少女――桜花も手を引き、表情を引き締める。
「なんでしょう。“葛城”は貴方がこの国の未来を握ると確信した故、私が貴方の許へ嫁ぐことを許しました」
桜花は青年の目を見上げ、言葉を続ける。
「貴方の憂いはこの国の憂い。遠慮なさらず、仰ってくださいませ」
桜花の言葉に、青年は恥じるように頷いた。
「うん。陛下が先の協定に何か良くないものを感じておられるらしい。彼の二国との関係は、我が国のか細き生命線の一つだ。あまり滅多なことは言いたくないが――」
「――しかし。真実、日本に災いがあってからでは遅い、と仰いますのね?」
桜花は青年の言葉を引き継ぎ、頷く。
「“葛城”にもかの国の焦臭い噂は届いております。なんでも、独逸は修験者や陰陽師の如き力を、兵士に与えようとしているとか。その力が、我が国にも牙を剥くのではないかと……」
青年は然りと頷き、言葉の勢いを増す。
「嗚呼、今や我が国の政策に陛下の御声は届かぬ。いや、そもそも確たる証拠が揃っていない今、誰の発言であれ議会は耳を貸すまい」
そこで、と青年は見上げる桜花に視線を落とす。
桜花の目を真直ぐに見るそれは、複雑な色をしていた。
「なんとか、君の家の力で独逸、そして伊太利の動向を探っては貰えないか。私――ひいては陛下の杞憂であれば、それはそれで構わない」
それがいかなる危険を伴う頼みであるか、青年にも分かっていた。
ことが露見すれば、それだけで三国の関係に亀裂を入れかねない隠密任務である。
だが。
「承りました」
桜花は一つ頷き、即答で快諾した。
「では早速準備をして、欧羅巴へ参ります」
その回答に慌てたのは、青年の方だった。
「い、いや、君が行く事は――」
青年の言葉は、唇にそっと当てられた人差し指で遮られた。
思わず黙った青年に、桜花がにっこりと笑う。
「“没落寸前の家を立て直す為、どうにか取り付けた富豪の娘との婚姻。しかし嫁入りするのは、未だ政治にも理解を示さない少女。政略結婚を前にした最後の我が儘で、三年という期限付きで欧羅巴の自由な世界を見て回る旅行に出たのでした”」
「――如何です?」
朗々と。どこか戯けた調子で。しかし覚悟を秘めた少女の言葉。
青年は、そこで止める言葉に意味がないことを悟るしかなかった。
悟るも何も。
この任務が万が一にも失敗できない事を誰よりも理解しているのは、彼自身であったのだ。
「――分かった」
頷いた彼は、真直ぐに桜花の目を見た。
「古来より国の憂いを払ってきたという葛城の力、貸していただこう」
その言葉に応えるように、桜花は静かに目を伏せた。
「お任せください。葛城の山を下りたその日から、狐の子はこの国の御為に」
――とん、とん。
部屋に響いたノックの音で、桜花は夢想から現実に還った。
ノックの主は、呼び寄せた葛城の私兵だ。
「はーい」
部屋に素早く視線を走らせ、出発の準備ができていることを確認しながら返事をする。
服装は、できるだけ動きやすく。
荷物は、安全な場所に宅配を。
ついでに念のため。と、顔を隠せる仮面――やや派手すぎるが、ここでは寧ろその方が良いらしい――を持ち。
最後に、鞘に収められた一口の刀を握る。
刀を握ると、ここまで手に入れた情報が過った。
青年は正しかった。
「やはりナチスは、とんでもない事を企んでいました」
遠い故郷に向け、誓いを新たにする。
とん、とん。
ノックの音がする。
「はーい! いつでもいけますよ」
急かすノックに小走りで駆け寄り、ノブを手にする。
「お待たせしました。さ、いきましょ――」
そのドアを開ききる事なく、彼女の声が途切れた。
廊下には、仮面をつけた男が立っていた。
彼女は言葉を失ったまま、男を見る。
見上げる桜花の瞳に映り込むのは、仮面の奥から覗く瞳。
そこには。宝石のような紅い輝きが滲んでいた。