SCENE6 - 1
教えられた宿は、幾度か訪れた場所だった。
交渉役としてやってきた霧緒とリンドは、桜花が宿泊する部屋の前で足を止めた。
「交渉がうまくいけばいいが……」
小声で呟くと、霧緒が「そうだねえ」と同意する。
交渉はあまり得意ではないと話していた彼女だが、でも、と言葉を繋ぐ。
「桜花さんだから、話は聞いてくれると思うよ」
きっとね、と微笑む。
そうだな、と小さく頷いて、改めて彼女を見上げた。
「キリ」
「うん?」
どうしたの、という表情に、少しだけ複雑な顔をする。
「交渉のメインは任せて良いか? 俺はどうもオウカが苦手でな……」
桜花と過ごした日々を思い出し、視線を落とす。思わず顔が苦くなるのが自分でも分かる。
霧緒は一瞬だけきょとん、とした顔で瞬きをして、くすくすと笑った。
「うん。そうだね。――任されたよ」
「うむ。頼んだ」
「じゃ、行こうか」
小さく気合いを入れるように呟いて、霧緒がドアをノックする。
しばしの間。
そして、はーい、という返事。
「こんにちは。深堀です」
名乗った声に返ってきたのは、ぱたぱたという足音。
それから、がちゃりと開くドア。
「あら、霧緒さん! どうぞどうぞ」
ひょこりと顔を覗かせた桜花は、嬉しそうに部屋へと案内してくれた。
「お邪魔します」
ぺこりとお辞儀をして入る霧緒。その隣に居た猫の存在に彼女はすぐさま気が付いた。
「あら猫さん。いらっしゃい」
ちらりと見上げると、目が合った。にこにことした機嫌良さげな顔をしている。
そんな彼女から視線を外し、そのまま窓辺に駆け寄って場所を取る。
桜花は少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐさま霧緒の方を向き、席を勧める。
「突然お邪魔してしまってすみません」
案内されながらかけられた言葉に、桜花は「ああ、いえいえ」と嬉しそうな笑顔を返す。
「いつでもいらっしゃって良いんですよ? 暇ですし……あら。今日はみあさん、一緒じゃないんですね」
「ええ。今日は留守番をすると張り切っていて」
「張り切って留守番……」
くすくすと桜花が笑う声がする。
「と、言う事はもう一人の方と?」
「ああ、河野辺さんですか? はい。そうなんです」
「そうなんですかー」
そんな会話と、響く食器の音を聞きながら、リンドは丸くなって部屋を見渡す。
ベッドが一つ。テーブルには読みかけだったらしい本。コートハンガーに掛けられたストール。窓枠や電灯は細かな装飾が施されている。全体的に西洋風で豪華な作りだが、部屋の奥には日本刀が一口飾ってあった。
部屋の雰囲気に似合わないそれは彼女の私物だと、すぐに見て取れる。
なかなか良い趣味をしているな、と眺めているうち、お茶の準備が整ったらしい。
桜花が席について、本を邪魔にならないよう少しだけ位置をずらす。
「それで、今日は何か御用があっていらっしゃったんですか?」
「暇だったので遊びに――って、言えたら良かったんですが」
残念そうに霧緒が微笑む。
「実は、お願いしたい事があって」
そう言う彼女の目は、表情とは違って真剣だ。
桜花もそれにはすぐさま気付いたのだろう。表情を引き締めて「なんでしょう?」と話を促した。
「そうですね……何処から話したものか。ええと。先日来航してたドイツの軍艦、ご覧になりましたか?」
「独逸の……ああ。機械製のガレアス船ですね」
見ていはいませんが、話には。と桜花は頷く。
「実は私達……あの船を追っているんです」
「あの船を?」
桜花は眉をひそめる。不思議そうなその声に、霧緒はええ、と頷いた。
「すごく、突然な話ですが……私達はあの船に行かなくてはいけないんです。それで……今日はその船に辿り着く為の協力を、お願いしにきました」
「あの船は、独逸の軍艦ですよ?」
「ええ、知っています」
「霧緒さんは、それを知ってなお、追うと言うのですか?」
どうして、と彼女の目が問いかける。
霧緒はその目を、真直ぐ見返した。
「桜花さんは、私とみあちゃんが現れた時の事を覚えていますか?」
「ええ。突然現れて、あんなに傷だらけで……」
「そうですね」
少しだけ懐かしそうに、目を伏せる。
「私達は正規の乗客じゃなかった。桜花さんが居なかったら海に投げ込まれていたかもしれません」
言葉を切って微笑んだ霧緒は、桜花の目を真直ぐに見つめる。
柔らかく見えるその目にあるのは、決意の色。
「そんな私達が見つけた、道標なんです。――ね、リンド」
ふと視線が動いて、名を呼ばれた。
その視線は、こっちにおいで、と呼んでいる。
――オウカが苦手とか、言ってられない、か。
リンドは身体を震わせ、立ち上がる。
窓辺から飛び降り、二人が対面するテーブルへ飛び乗る。
ぴしりと背筋を正して座ると、彼女と目が合った。
好奇心に溢れた黒い瞳は、不思議そうな顔でリンドを見ていた。
「オウカ」
「わ、喋った」
名を呼ばれ、桜花の目が驚いたように開く。
だが、それも一瞬で、彼女はすぐにくすくすと笑い出した。
「うふふ。驚いてしまいました」
でも、当たり前ですよね。と彼女は柔らかな視線を向ける。
「貴方、猫の目ですけど――人の眼差しをしてらっしゃいますもの」
「流石だな」
そう言って背を伸ばす。
「で、本題だ。キリの言った通り、俺達はあの船に行かなければならないんだ。俺からも頼む」
桜花はその一言で、改めてリンドと霧緒を見回す。
「理由は聞くな、と仰る?」
その言葉にリンドが「いや」と首を振った。
「聞くなとは言わない……だが、悪いが全てを話す訳にはいかないんだ」
そうですか、と桜花は静かに頷く。
「だが、俺にはあの船に元同居人が居るかもしれないんだ。その為に、あの船へ行きたい」
「家族のため、ですか?」
家族。
既に別れを告げ、家を離れた身だが。
「そうだ」
真直ぐにそれを、肯定した。
淀みの無い返事に桜花は頷き、今度は視線を霧緒へと向ける。
「霧緒さんは、如何です?」
柔らかだが、何一つ見逃さないような鋭い視線。
一瞬だけ気圧されそうになったが、すぐに静かな目で桜花と向き合った。
「私は……元居た場所に帰る為、です」
「元居た場所、ですか?」
その問いに、はい。と頷く。
「私は、そこに守るべき人達を残してきました。今ここに居るのは、彼らを守ろうとした結果ではあるのですが……」
まだ途中なんです。と言葉を切った。