SCENE5 - 4
「新聞。もらってきた。今日は収穫だよ」
そう言ってみあが机の上に“新聞”を広げたのは、更に二日後の事だった。
広げた紙面には、びっしりと小さな文字が並んでいる。
「異邦人の話が聞けたの」
「本当か!」
みあの言葉に、大きな反応をしたのは当然ながらリンドだった。
猫らしい身軽さでテーブルの上に飛び乗り、紙面を見つめる。
「あっ。こら、リンド! 踏んだら読めない!」
椅子に膝立ちで腕を伸ばし、みあはリンドを両手で捕まえた。
「にゃ……おい、離せ! お前が持つとロクな事が無い!」
「む。ロクな事が無いって何よ」
「そのままの意味だ!」
「なにそれ酷くない?」
わーわーにゃーにゃーと二人が言い合いを始める。
司は彼らを暫く見守ってやろうかと思っていたが、これは止めないと迷惑になる。と、溜め息をついて仲裁に入る姿勢を取った。
が。
「はい、二人とも。もう夜も遅いからね。静かにしなきゃ」
ひょい、とみあからリンドを取り上げるように、霧緒の仲裁が入った。
そのままリンドを邪魔にならない所へ下ろし、彼女も椅子に腰掛けて記事を眺める。
とは言っても、霧緒はイタリア語は読めないと言っていた。少しだけ視線で文字を追いかけて「そう簡単に読めるようにはならないね」と苦笑いをした。
「じゃあ、説明するね」
とみあが紙面の文字を指差しながら内容を説明する。
「異邦人は、自分がこの場に居る理由を語る際、共通して出てくる単語がある。時代、駅、それから……渋谷」
ほう、と思わず声を上げる。
「それだけの単語が揃ってるなら、異邦人はホームに居た人確定だな」
「そうですね」
霧緒も頷く。
で、他には何が書いてあるんだ? と先を促してみると、みあは紙面を指でなぞって、「あとはこれかな」と読み上げた。
「猫を探している少年が居る」
「!?」
その言葉に、すぐさまリンドが反応した。
「それは、もしや――!」
新聞に飛び乗り、みあが指を止めた辺りの記事を読もうと試みる。
「もう、そんな事しなくても読んであげるわよ」
ほらほら足どけて。と、みあがリンドの前足を持ち上げると、リンドは大人しく一歩引いて続きを待った。
「えーっと。この地に現れるよりも前に、昔飼っていた猫を見かけたらしい。猫を探し歩く姿が人々の印象に残っているようだ――うん。可能性としては高いんじゃない?」
リンドはその内容に無言で尻尾を引き締め。それから溜め息を漏らした。
「やはりユウキだろうか……。あの船に乗ってるかもしれないなら、助けなければ」
「ふむ……。船もあれから動いてる様子聞かないし、どうにかしてアイゼンオルカまで辿り着かなきゃならないか」
「でも、どうやって?」
「うん。そこなんだよねー……やっぱ船が良いよなあ」
「そうだねー……」
そう考え始めた時。
こん こん こん。
小さなノックの音がした。
全員がドアへと注目したのは一瞬。すぐに席を立ったのは霧緒だった。
『……はい、どちら様?』
少しだけドアを開け、問いかける。
ドアの向こうに居る人物がなんと答えたかは分からないが、が「はい」と返事をした所を見るに、相手は日本語が通じる相手のようだ。
葛城さんかな、と考えながら司がマグを手にすると。
「河野辺さん、お客様ですよー」
なんか呼ばれた。
「俺に?」
思わず聞き返す。霧緒はドアの横で「はい」と頷いた。
一体誰だろう、と腰を上げてドアへと向かう。
「はいはい。河野辺ですが……」
そう言いながら、霧緒と位置を変わり、顔を出す。
そこには。
結い上げた艶やかな黒髪。派手にならない程度に刺繍が施された朱のチャイナドレス。
何故こんな所に居るのか、という東洋人の美女。
あの時とは微妙に髪型や衣装が異なるが。それは間違いなく、アイゼンオルカの中で出会った唯一の東洋人。何仙姑。
「……何仙姑さん?」
思わず上げた声にも、何仙姑は静かな声と笑みで答える。
「またお会いしましたね。司さん」
「ええ。お久しぶりです……って、どうしてここが?」
「東洋人を泊めている宿は少ないですから。貴方達はご自分で思っておられるよりも目立っていますよ?」
それよりも、と彼女は司に向けていた視線をふと歪め、変わらぬ調子で言葉を繋ぐ。
「今はそのような事を言ってられる状況ではないのでは?」
「……」
思わず黙る。
……何この人マジ怖ぇ。うちの上司かよ。
宿がバレているのは、まあ。良い。しかし、情報の共有や相談はずっとこの部屋でやってきた。だというのに状況まで知られてるってどういう事だ。
だが。ここで嘘をついても良い事はひとつも無いだろう。
「……よくご存知で」
呆れたように笑って、司は何仙姑の言葉を肯定し、ドアをもう少しだけ大きく開いた。
「そんな話なら立ち話もアレですし、中、どうぞ?」
彼女を部屋へ通して紹介をすると、みあが少しだけ嫌そうな顔をしたのが見えた。
が、すぐにそんな顔をしまい込んでぺこりと頭を下げ「はじめまして」と挨拶をする。そんな彼女に何仙姑も「はじめまして」と丁寧な挨拶を交わし、勧められた椅子へと腰掛ける。
全員が椅子やベッドに腰掛けた所で、司が話を切り出した。
「じゃあ……本題に入りましょうか。状況はなんか把握されてるっぽいから割愛で。――俺達はあの船、アイゼンオルカへ行く必要がある」
「ええ。そのようですね」
「ただ、ここでの問題は、どうやって船まで辿り着くか--相手は沖だし、ここは港町だ。こっちも船で向かうのが順当、というのが今の見解です」
だよな、 と周囲を伺うと、全員が同意するように頷く。
「しかし、その船の調達が問題、そうですね?」
「……そういう事です」
その返答に何仙姑は目を伏せ、頷く。
「では、その船を貸し出せる心当たりを紹介いたしましょう」
その為に来たかのような口振りで、彼女は静かに 話を切り出した。
「今、大日本帝国軍部の特務機関より派遣された密偵が一人、ヴェネツィアに来ています」
その言葉に誰も相槌を打つ事なく、静かに続きを待つ。
「本来、ナチスの動向を探るのが任務の大陸浪人ですが……かの船は独逸の軍艦です」
状況を話せば協力してくれるでしょう、と彼女はその名前を教えてくれた。
葛城。
その密偵の名は、葛城桜花といった。
「葛城さん、ですね。ありがとうございます」
その名前は、情報収集の合間に何度か会った事のある少女のものだった。
あの人、単にテンション高いだけの旅行者じゃなかったのか。と彼女に対する印象を改めながら何仙姑に向き合うと、音も立てずにカップをテーブルに戻した彼女と目が合った。
ふと、その眼が微笑む。
何を考えているのか読めないような目は、船の中で話をした時と変わらない。
そうだ。船の中でもそうだった。
彼女はいつの間にか自分の――自分達の状況を把握し、その一歩先へのピースを示した。
その情報に間違いはなく。まるで、それらがあらかじめ分かっているかのように。
――なんだ。同じじゃないか。
ふと、そんな事を思った。
何を不思議な事がある。と心の中で自嘲する。
自分は「そのような人」を知らないわけではないだろうに。
彼女にその影を見た気がして、司はくつくつと笑った。
その反応に、何仙姑が僅かに首を傾げる。
「あぁ。失礼。なんというか…… 何でもアリなんだな。貴女は」
笑いを抑えながらの言葉に帰ってきたのは、嫣然とした微笑み。
「褒め言葉……と、受け取りましょう」
「当然、褒め言葉ですよ。――そうですね。『貴女みたいな人』は、無条件で褒め称えてしまう位」
少しだけ照れたような溜息を混ぜたその言葉に、何仙姑はほんの少しだけ眉を寄せたが、それは感情を読み取らせるほどの形にならない。
そして、それを誰にも気取らせる事なく。彼女は目を伏せた。
「ありがとうございます。そのような言葉を頂いたのは初めてです。私も、貴方のことは忘れません。――さて。これ以上長居するにも遅い時間ですし、そろそろ失礼いたします」
道中、お気をつけて。と、告げて席を立ち、小さな靴音と共にドアへと向かう。
ノブに手をかけた所で、何か思い出したように手を離して振り向いた。
「これは、一つの大きな岐路となるでしょう」
見送ろうと立った四人は、瞬きをしてその言葉を受け取る。
そんな反応に、 何仙姑は何を思ったのだろう。背を向けてドアを開けた。
「貴方達はきっと、その瞬間に立ち会うのでしょう。ゆめゆめご自分が何の力もない者だとはお思いになりませんよう」
そんな言葉を残し、今度こそドアの向こうへと去って行った。
「……ご忠告、ありがとうございます」
既に気配のないドアへ声をかけると、隣でみあが溜息をついた。
そういえば 何仙姑が部屋に入った時微妙な顔をしていたな、と思い出す。
「どうした?」
あの人苦手なのか、と視線を向けると、自分を見上げていた彼女と目が合った。ぱち、と瞬きをしたその目は、いつもの子供らしいそれではなく、呆れたように笑っていた。
「お兄ちゃんはきっと、将来大物になるよ……」
「え。なんでよ?」
意味が分からない。
そう訴えても彼女は答えなどくれない。
「そういう所が、だよ」
とだけ言って、ぱたぱたと元いた椅子へ戻っていく。
司にはその言葉がよく分からず。
「よーわからんことを言うな……」
そんな感想を抱くのみ、だった。