SCENE5 - 2
司を助け出したあの日から数日。
アイゼンオルカは、いつの間にか港から姿を消していた。
甲板にあれだけ沸いていた異形の噂をひとつも残さず。
何の前触れもなく。
ある朝港に行くと、既に出港してしまった後だった。
慌てたものの、船を追いかける手段はない。
「まあ、まずは情報集めてみようよ。行き先とか分かればどうにかなるって」
そう言ったのは、司だった。
楽観的にも見える意見だったが、船を調達する手段も無い現状では、それが最も先に進める可能性だと、全員が頷いた。
それから更に数日。情報収集を始めて一週間が経過する頃。
「今日はなかなか楽しい話が聞けたぞ。あの船の話とか」
そんな言葉と共に司が持ち帰ってきた話は、アイゼンオルカはその後、どこかに向かっている様子もなく、ただアドリア海沖を漂っているという物だった。
「――出港を見てた人は、船には誰も乗ってなかったように見えたって言うし」
甲板に異形がどっさり、って訳ではなさそうだけど。と、司はビーゴリと呼ばれるパスタをフォークですくい上げた。
「誰も乗っていない……?」
食事を早々に終えたリンドは尻尾の先をぱたぱたと揺らし、「奇妙な話だ」と呟く。
「でもあれ、オールいっぱいついてたよね。誰も乗ってなくても動くの?」
首を傾げて素朴な疑問を投げかけたみあに、司は「そうだなあ」と難しい顔をする。
「ドイツの科学力は世界一だって話だし? もしかしたらオール電化で無人操縦とか夢じゃないかもしれないぞ?」
「わあ……。なんか未来みたいだねえ」
みあがどこか感心したように声を上げると、司は難しい顔のまま「というか」と言葉を繋ぐ。
「それならガレアスなんて古くデカい船じゃなくて、最新技術の軍艦作った方がずっとマシだと思うんだが……」
譲れない浪漫とかそんなんだろうか、という呟きを漏らす。
「甲板に首の折れた人影が居たとか、それを調べにいった船が撃沈されたとか、通りかかった船を無差別に攻撃したとかそんな話もあったから。未来っていうより何か別の物な感じもしなくはないな――しかし」
鉤十字掲げてそれは物騒すぎだろ、とぼやきながらパスタを口へ運ぶ。
確かにそれは、不味い話だな、と霧緒はパンをちぎりながら視線を落とす。
ただでさえ、世界大戦直前というこの時代。たった一つの銃弾が大きな戦いに発展する可能性は十分にある。
そんな背景を持つ世界で、鉤十字を掲げての無差別攻撃。
余計な火種にしかならないと、思わず眉をひそめる。
しかも、あの規模の船だと言うのに、ほぼ無人だという。乗っていると分かっているのは――首の折れた人影ただ一人。
その人影はきっと、あの少佐だろろうけど……引っかかるな。と思案する。
彼は異邦人を捜していると言っていた。なのに、何故今は漂うように沖合に居るのだろう。
「霧ちゃん?」
「……え。あ。はい?」
どうやら食事の手が止まっていたらしい。かけられた声にハッとして、なんでしょう、と答える。
「いや、聞きたいの俺なんだけど……」
「あ……すみません」
思わず謝ると、司は「別にいいんだけど」とパスタをすくう。
「で。なんか引っかかることでもあった?」
「ああ。そう、ですね……引っかかるというか気になるというか……」
その、とさっきの会話が漂っているかのように、空中を軽く指差す。
「首の折れた人影、なのですが……」
「ああ……うん。間違いなく霧ちゃんのアレだね」
司が軽く打った相槌に、思わず言葉が詰まった。
空中に彷徨ってた指をしまい込むように握り、反論する。
「あ、あれは……腕の隙間よりあっちの方が良いかと思って……」
「うん。……その発想は否定しないけどさ。おかげで街では完全にオカルトとかホラーとかの方向になっちゃってたよ?」
あの異形も伝わる所には伝わってたけど謎の存在だったし。という言葉に、霧緒は更に言葉を詰まらせる。
確かに首を狙ったのは自分だし、思いの外頑丈で落とすことができなかったのも事実。
首は、本来ならば動きを封じてからでないと狙うのが難しい部位なのだが。
「あ、あの時はちょうど河野辺さんに注意が向いていて。とても狙いやすかったといいますか……」
ごにょごにょと言葉を濁しながら視線を逸らす。
まさかそれが、噂話にまで影響するなんて……、と複雑な心境に首が傾いた所で。
「――って、そうじゃなくてですね!」
顔を上げた。
「なんだ。違ったの」
「……っ。当たり前、です」
思わず上げそうになった声を抑えてため息に変える。
今話題にあげようとしているのは、そんな話ではない。と、気を持ち直して話を続ける。
「その人影ですよ。それがバルトなのは間違いないと思います。あの時、彼が起き上がったのは全員が見ている訳ですし。しかし……彼はどうして、ヴェネツィアを離れたのでしょう?」
「どうして、とは?」
どういうことだ、と目を細めるリンド。霧緒はひとつ頷いて話を続ける。
「異邦人を集めるという目的は達成してしまった……ってことはないはず」
だよね、と霧緒は食事の手を止めて首を傾げる。
「うむ……。確かに、それはないだろう」
ツカサがここにいるのが何よりの証拠だ。とリンドは言う。
霧緒もそれには同意だった。彼が認識していた「異邦人」は、司を筆頭に四人も居るのだ。逃げる所まで確認しておいて、追っ手を差し向けることもしないのは何故か。
「一定の人数居れば良かった、とか……?」
「何それ。儀式にでも使うの?」
「儀式?」
みあの何気ない単語に、リンドの耳がぴくりと動いた。
「それは不味い……そうだとすれば、早く止めに――」
「まあ。落ち着け」
儀式ってのは流石に冗談だ、と司がやんわりと声を挟んだ。
「――寧ろオカルトと言えば、さっきの話だ」
と、司は食べ終わった皿にフォークを置いた。
「そこで考えなきゃいけないのがもう一つあってさ」
コーヒーを一口啜って、言葉を続ける。
「オッサンはどうして首が折れたままなんだ?」