SCENE4 - 6
「……なんかこう、さ」
涙を甲板に流したまま動かなくなった彼を囲み、司が口を開いた。
冷たい潮風に耐えきれなかったらしい彼は、転がっていた兵士から剥ぎ取ったコートのポケットに両手を突っ込んでいる。
「絶対こいつ、ドイツが世界征服した夢見てたぞ」
「夢の中だ。そのくらいこいつの自由にさせてやれ」
と、リンドは司の足元で尻尾を揺らす。
「そうそう、夢の中なら何でもアリですよ」
リンドに同意するのは、傘を抱えた霧緒。その隣で、みあも「みんな何気に酷いなー」と笑う。
「お前が言うのか、ミア」
「何よ。文句あるの?」
ぴくりと耳を立てたリンドと、それを見下ろす少女。一人と一匹が睨み合い――。
「お前ら落ち着けよ」
呆れたような声が割り込んできた。
みあとリンドが顔を上げると、その声と変わらぬ表情で司が小さく溜め息をついた。
「そんな事より、退却しようぜ?」
これ以上の面倒事はごめんだし、と肩を落として司が船の出口を指し示す。
「そうね、さっさと撤退しちゃおう」
うん、と頷いたみあに続き、霧緒とリンドも同意し、足を出口へと向けた所で「そうだ」と司が声を上げた。
「河野辺さん?」
どうしました? と振り返ったのは霧緒。
みあとリンドも、彼女と同様に足を止めて振り返っている。
そんな三人の視線の中で、司は「いや、」と少しだけ前置きをして。
「今回は助かった。みんな、ありがとう」
と、どこかほっとした顔をした。
「――全くだ」
と溜め息をつくように答えたのは、リンドだった。
呆れたように首を振る。
「これでは……マグロが一体じゃ足りん」
だが、と繋ぐように呟いて、リンドは司に背を向け。
「その交渉は後だ。今は退却するぞ」
ぴょーん、と先頭を切って駆けていく。
その背中に続くように、みあと霧緒も司へ背を向けた。
「そうそう、積もる話は後でゆっくりしましょう」
「さ、早く退却退却ー」
ぱたぱたと甲板に足音を響かせて、彼女達はリンドを追い越し、駆けていく。
彼女達の背中を追いながら、司は追いついたリンドに「なあ」と声をかけた。
「なんだ、ツカサ」
前を走る二人から目を離さず、司はリンドに問いかける。
「さっきから思ってたんだけどさ……あの二人、なんか素が出てない?」
俺が居ない間に一体何があったんだよ、という声に、リンドはどこか悲しそうな顔で、ふるりと首を振った。
「残念だが……二人ともあれでガチだ」
特にミアはな、と心底残念そうな声に、司も「そうか……」とどこか遠い目をした。
甲板と陸地を繋ぐ小さな板橋は、そう遠くなかった。
多くの人が一度に通れるよう、いくらか広く、頑丈そうなそれに四人は足を掛ける。
――がしん
彼らの背後で、何か重い音がした。
「……?」
真っ先に音を聞きつけて足を止めたのは、リンドだった。
彼に続くように、他の三人も次々に足を止め、振り返り。
その光景を疑った。
甲板には、バルトが立っていた。
先程まで流していた涙は無く。
叫んでいた口元にも笑みは無い。
それどころか、彼には最早表情と呼べるものが見当たらない。
そして彼は、口を開く。
「――は、は、は」
ぎこちなく漏れたその声は、次第に速度を上げる。
「は、は――はは、ははははは」
哄笑。
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
それは最早、笑いというよりも、ただ垂れ流される“笑いじみた声”。
天に向かって声を垂れ流す彼の喉には、先程霧緒が切り裂いた傷があった。
――その中心に輝く、見覚えのある紅い輝きと共に。
「アレは――!」
叫んだリンドは己の尻尾を示そうとする――が、そこには既に結晶は無い。
揺れる灰色の毛並みに、リンドは苦い顔をした。
しかし、その意図を汲み取ったみあが、「そうかもね」と頷く。
「それにしても色々と気になるわね……。一度きちんと調べたい所だけど……」
今はダメね、と小さく首を振る。
「うん、調べるにしても。とても難しいと思う」
賛同するように、霧緒も頷く。
「皆、冷静だな」
どこか心配そうな素振りのリンドの声を、司とみあが拾う。
「俺は過去に来た時点で、十分驚いたからな」
「調べた時点で、ある程度予測はしていたから」
そうしている間にも、バルトの喉元にある輝きは増す。
その紅が一段と目映く、禍々しく輝き――。
周囲にあの――渋谷駅で見た、白い異形達が湧き出るように出現した。
「有り難くない展開だな」
リンドはひとつ舌打ちをして、白い異形を睨め付ける。
「ここはどうするか……退けるならその方が良いが」
どうだろう、とリンドは皆に問いかける。
退路に自分達を遮る物は無い。このまま背を向けて、逃げ出すのは十分に可能だった。
「……だけどさ、アレ、放っておいたら駅と同じ事にならないか?」
そう言うのは、ホルダーに手をかけた司だった。
彼はそのまま銃を抜くつもりなのだろうが。リンドはふるりと首を振って、司を見上げる。
「ツカサ、俺達はこの世界に何の責任もないんだぞ」
司が銃を握りかけた手を止め、リンドを見下ろした。
「お前は、それでもこの世界に義理を果たすのか?」
そのような会話の間にも、白い異形は増えていく。
このまま際限なく増えた異形が甲板を埋め尽くすのも、時間の問題だった。
「――義理なんて無いさ」
たださ、と彼は言葉を繋ぐ。
「もし、この世界が俺達の世界と繋がっていたらエラい事になる可能性はあるが……とはいえ」
そう言って下ろした手に、銃は無かった。
「さすがに多いなこいつら……数えるのも嫌になる」
溜め息と共に首を振った司に、リンドは「うむ」と頷いた。
「俺達がやれる事には限りがある。そうじゃないか?」
「むぅ……」
「余り格好良くはないがな」
「まあな」
「では、ここは一度撤退だ」
そう言ってリンドは異形達に背を向け、板橋を陸へと進む。
それを見たみあがリンドを追いかけるように続く。
「それがリンド達の選択なんだね」
独り言のような彼女の言葉に、リンドは「そうだ」と頷いた。
「俺は、俺の手が届く範囲でしか敵に回さないんだ」
と、肩をすくめるような仕草をして、板橋を走る。
司と霧緒も、後ろを気にしながらではあったが、二人を追うように陸へと向かう。
増える異形達は、感情の無い目で陸に降りた彼らをじっと見ていた。
その奥。バルトだったものもまた、同じ目をしている。
そして、船から立ち去る彼らの背に元・バルトの声が響いた。
『賢明である』
よく響くその声は、陸に辿り着きそうな四人にもはっきりと聞き取れた。
『戦力差を考慮し、干渉をしないならば、我らも敢えて汝らを優先目標とはしない』
最も後ろを走っていた霧緒が陸に辿り着いた時、最後の声が届いた。
『――汝らには“恩”があることも、その理由である』
「恩?」
その単語に、みあは思わず足を止めた。
そしてその意を瞬時に理解し、小さく声を漏らした。
バルトだった物の喉で輝く紅は、間違いなくあの石だ。
しかし、この世界の歴史にあのような石など存在しないはず。
自分の中にある、膨大な”記録“にも、そのような存在は無い。
それなのに。
石は確かに目の前で、バルトという死した将校を乗っ取った。
その石は何処から来たのか?
そんなもの、考えるまでもない。
リンドの石はきっと、時間渡航の中で消え失せたのではなく、この時代に落ちたのだ。
取り憑き、目覚めた石が言う“恩”とは。
この時代へと、彼らを運んできた事。
「厄介毎を持ち込んだのはあたし達な訳ね……」
口の中で転がした言葉を噛む。
そして彼女はもう一度だけ船を一瞥し、背を向けて駆け出した。