SCENE3 - 6
「ただいまー」
宿に取った部屋のドアを開けると、廊下よりも暖かい空気が流れてきた。
並んだ二つのベッド、小さなテーブルに添えつけられた二脚の椅子。小さなハンガー掛けと、鏡台。小さな棚には、湯沸かし器が一つと、いくつかのマグカップ。部屋の奥にある、すっかり曇った木枠の窓。その下に添えつけられた温水式の暖房器具が、部屋を暖めていた。
おかえり、と席を立った霧緒が居たテーブルには、ひざ掛けとマグカップ、それから何かを書き留めていたのか、ノートが広げてあった。
「あれ、リンドは?」
コートやマフラーをハンガーに掛けながらきょろきょろと見回すと、あそこだよ、と霧緒が視線で部屋の奥を指し示す。
視線を追いかけて振り返ると、ベッドの隅で灰色の猫が丸くなっていた。
「寝てるの?」
視線だけでリンドを指して問いかけると、霧緒はそうだね、と頷いた。
「さっきからあんな感じ。長旅だったみたいだし……さっきも随分と大騒ぎだったからね。疲れてるのかも」
さっき、とみあは食事時の光景を思い返す。
リンドは桜花に抱きしめられたまま、アレはどうだ、これは美味しいか、と楽しそうに色々な物を食べさせられていた。
「アレくらいで疲れるなんて」
「いや……あれは、疲れるには十分だったと思うよ?」
少しだけ苦笑いしながら彼女はテーブルのマグを手にした。
空っぽらしいそのマグを軽く掲げ、霧緒はみあに声をかける。
「何か暖かいもの、飲む?」
「あ。飲むー」
「じゃぁ、ちょっと待っててね」
ポットを手にした霧緒から視線を外し、みあはリンドの背中をじっと眺める。
灰色の背中は、規則正しい呼吸を繰り返している。
顔は向こうを向いていて、寝ているのかどうかは分からない。
無防備に丸まったその背中。
暫く眺めていたみあの口元がふと、つり上がる。
そして少しだけ身を屈め――
「リーンードー!」
リンドの寝るベッドへと飛びかかった。
直後。
ばふ、と布団に少女が倒れこむ音。
そしてみあの腕の中にある――暖かな布団。
直前までの存在を示す温度は残っているが、その場所に猫は居ない。
「あれ?」
「あれ、ではない」
布団にダイブした格好のまま横を向くと、真横で呆れたように息をつく猫が居た。
「寝てると思ったのに」
「あんな声で飛びかかられたら目も覚める――それで、何だ?」
飛びかかった事は兎も角、起こしたからには理由があるのだろう? とリンドはみあに問いかけた。
「そうそう。ちょっと作戦会議しようと思って」
「作戦会議?」
「そう。明日のお兄ちゃん救出作戦」
その一言に、リンドは「ほう」と一言漏らす。
水色の目を少しだけ細め、くるりと背を向けてベッドから飛び降りたかと思うと、暖房機の傍へと場所取る。
「話を聞こう」
そう言って、ぴしりと背筋を伸ばし、さもこれまで待っていたかのような顔をした。
ほわほわと暖かな湯気を立てるマグが二つ並ぶ頃。
テーブルの上には、ついさっきまで広げてあったノート類の代わりに新聞が一つだけ置かれていた。
向かい合うように席に着いた霧緒と、暖房機の傍から見下ろす猫の前で、みあはその新聞紙をばさりと広げた。
「私が手に入れてきた情報はこれなんだけど――これに、アイゼンオルカとバルトの情報が書いてあってね」
紅茶の入ったマグを手に取り、記事の中身――先程手に入れた内容を掻い摘んで説明する。
「と、いうわけで、これが明日のお昼に来るんだって」
新聞を覗き込む二人への言葉を軽く区切ると、霧緒は少しだけ考え込むような仕草をした。
「と、いう事は到着してからしばらくすると隙が出来るの、かな」
リンドとみあが視線を向けると、彼女はマグを両手で包むように持ったまま「多分だけどね」と付け足した。
「長い航海で陸地に着くとほら。荷を降ろしたり色んな物の補充をしたりで忙しいし――何より、久しぶりの陸だから」
隙ができるんじゃないかな、と新聞の図を見下ろしながら呟く。
ああでも、と霧緒は思い出したように言葉を繋いだ。
「助けられるのは河野辺さんだけ、って思っておいた方が良いかもしれない」
その言葉に、リンドが耳を動かした。
何か言いたげに向けられた視線に、彼女は少しだけ困った顔をした。
「本当は皆を助けられたら良いんだけど……それ程の隙は無いと思う」
「ふむ」
「だから、まずは河野辺さん。それから改めて作戦を立てて皆を助けに行く、って事でどうかな」
「……そうだな」
暫くの沈黙の後、リンドはどこか名残惜しげに頷いた。
みあはそんなリンドの様子を見ながらマグを取り。
「じゃあ――リンド。明日は先に様子見に行って来て」
唐突にそう言った。
「おい」
「何?」
何じゃない、とリンドは不満げな声を漏らした。
「突然どうしてそうなるんだ」
話が突然すぎるじゃないか、とリンドは言うが、みあは何の不思議も無いと言わんばかりに「だって」と口を開く。
「この役目はリンドが一番適役だと思うからよ? 相手は軍艦、軍隊だもん。あたしやお姉ちゃんみたいな女子供が居たら怪しいよ?」
ずず、とマグに口をつけるみあを見上げ、リンドは小さく唸る。
「それに猫なら――狭い所からだって大丈夫でしょ?」
ね、と無邪気な顔をするみあに、リンドはどこか腑に落ちない顔をした。
「その言い分は分かるが……」
「何。なにか不満?」
その言葉に、リンドは眉間にしわを寄せ、唸るように俯いたが、すぐに首を一つ振って答えた。
「いや、異論は無い。その役目、引き受けよう」