SCENE3 - 5
冬は落日が早い。
緯度の高い地域なら、尚更の事。
辺りは次第に暗くなってきて、ぽつぽつと窓に明かりが灯り始める。
賑やかさは昼間に劣る事はない。寧ろ、這い寄る宵闇と暖かな明かりの中で、昼間とは違った賑やかさが辺りを包んでいた。
そんな街を行き交う人々の中で、黒髪がさらりと揺れる。
石造りの街と提灯の中で楽しそうに歩を進める背中は、桜花のものだった。
「オニオンスープのおっいしいお店ー、玉葱スープ玉葱スープー」
リンドを抱きかかえたまま進む彼女から、そんな鼻歌も聞こえてくる。
ふふふん、と響くご機嫌な即興歌詞に、霧緒はふと過った不安を口にした。
「……猫に玉葱ってダメじゃなかったっけ」
「うん、ダメだねー」
はぐれないように歩幅を合わせながら、みあは霧緒の隣で頷いた。
「食べさせる、気かなぁ」
「まさかー」
さすがにそこまではしないでしょー。という言葉に、霧緒も「そうだよねー」と小さく笑う。
「――と。そうそう、お姉ちゃん」
声をかけながら、少しだけ歩くペースを落とす。
それに気付いた霧緒も同様にペースを落とすと、少しだけ桜花との距離が空いた。
「リンドは桜花さんにがっしり抱かれちゃってるから、お姉ちゃんにだけ」
「……渡したのみあちゃんだけどね?」
苦笑いで返ってきた声に、だってー、と頬を軽く膨らます。霧緒はくすくすと笑った後「それで?」と続きを促す。
「お兄ちゃんの事」
「うん」
霧緒の声に少しだけ緊張が混じる。
「あたし、あとで少し出かけてくる」
うん、と少しの間を置いて小さな返事が聞こえた。
みあは髪の影で口元を緩ませ「大丈夫よ」と言葉を繋いだ。
「危ない事なんてしないわ。ただ、“お友達”に会ったから、もう少し詳しい話が聞けそうなの。――だから、夜になったら、リンドも一緒に話し合いましょう?」
「うん。そうだね」
お願いね、と託された言葉に、任せてよ、とみあは小さく胸を張る。
「もうあれだよ。囚われのお姫様は大人しく助け出されるのを待ってなさい! って感じだよ」
「ふふ……。それにしても、河野辺さんがお姫様っていうのもなんか変な感じだね」
「まあ、男の人だしね」
あー、でも、とみあは肩からずれたマフラーを直しながら呟く。
「お兄ちゃんだったら相手に挑戦して、自力で逃げたりしそう」
「そうなの?」
「お兄ちゃんは好奇心で穴に落ちる役どころだから」
「……そうなの?」
「うん」
あっさりとした肯定に、霧緒はうーん、と考える。
そんなに長く一緒に居た訳でもないし、正直、あの時は彼の事を見ている余裕もなかった。が、それでも、彼に対して好奇心旺盛な印象というものが彼女の中にはなかった。
「河野辺さんは、なんかこう……相手の隙をついて気付いたら居ないとか、そんな感じが」
「策士な感じ?」
「そうそう」
なんだか油断なりません、と頷く霧緒に「そうかもだけどねー」と笑う。
「お兄ちゃんは結構ユーモア溢れた事言うよー?」
「へぇ……」
「ま、ともかく。私、宿に戻ったら行ってくるよ。その間に――」
リンドの事、よろしくね、と悪戯っぽく笑う。
え、と一瞬何を言われたか分からない、という顔をした霧緒は、みあの目につられて視線を前へ向ける。
そこにいたのは、一件の店の前で手を振る桜花。
「二人ともっ、このお店ですよー!」
上がる声は明るく、元気と好奇心満載の笑顔。
そして、その腕の中には、どこか疲れた顔をした猫がいた。
あぁ……うん。宿に帰ったら、少し休ませてあげよう。
桜花に駆け寄るみあの背中を軽く追いかけながら、霧緒はそんな事を思った。
□ ■ □
賑やかな夕飯を終えた後、桜花と別れてそれぞれの帰路についた。
リンドが玉葱を口にする事はなかったが、黄金色のオニオンスープは温かい甘さと、染み込むようなコンソメが身体の芯まで暖めてくれた。
今だったらきっとジェラートだって平気だ。と、みあは小さなコーンを片手に小さな広場へとやってきた。
祭りの喧噪が遠くに聞こえる、宿に近い広場。
ぽつりぽつりと灯った街灯の明かりが、冷たいベンチの手すりを縁取る。
そんな中を、散歩のように歩いていると、少し先のベンチで新聞を読んでいる男性を見つけた。
分厚いコートに、厚手の靴。深く被った帽子と広げた新聞が、彼の素性を覆い隠していて、どのような人物かも分からない。
ただ、コートの着こなしとその裾から覗く足元から、軍事系の雰囲気を感じ取る事は出来た。
みあは迷いのない足取りでそのベンチへ近付き、まるで友人のように隣へと腰掛けた。
誰も座っていなかった木のベンチは、冬の冷気にすっかり凍えていて。じわりと服に伝わる冷気は、コートも手袋にも染み込んでくる。
地面には微妙に届かずぶらつかせた足元へと視線を落として、口を開く。
『待たせてしまったかしら?』
返事は無い。
彼女はそんな反応に小さく笑う。
『そうね。貴方は“そんな人”だったわ』
どこか懐かしむように目を細めた彼女は『それじゃあ』言葉を繋ぐ。
『昼間の話の続き。教えてくれる?』
溶け込む白い息に返ってきたのは、ばさり、という新聞をめくる音。
『――ドイツ軍特務少佐率いる部隊は先日、海を経由してイタリア領内へと到達した』
新聞の記事のような文面を、男はぼそぼそと読み上げる。
『へえ。じゃぁ今はこの国で活動しながらここへ向かってる、って訳ね。何をしているのかしら?』
『各地に出現する異邦人の捕獲――最近、各地から報告が寄せられている異邦人が、彼らの捕獲対象となっているのではないかという説が有力。しかし、彼ら異邦人の存在理由、部隊に与える影響等は明かされていない』
ふぅん、と相槌を打って、白い息をマフラーで遮る。
『――明かされていない、って事はその少佐が情報を握っている可能性は高そうね……彼についての情報はある?』
『――』
暫くの間。
情報なしか、とみあが諦めかけたその時、ばさり、と紙面がめくられ、男の口が動いた。
『ドイツ軍特務少佐――コルネリウス・バルト。彼については、イタリア領内に入るより以前から様子がおかしいとの報告が上がっている』
『様子がおかしい?』
みあの問いに答えはなく。男は変わらぬ口調で記事を読み上げる。
『表情が抜け落ちたような不思議な顔。笑いや怒りの表現に対する不自然な仕草、無理に作られたような表情等が挙げられるが――どれも以前は見られなかったものである』
『……なにそれ。以前はなかったって事は、何かきっかけがあったりするの?』
『流行病や事件は報告されていない。ただ、ある者の話によれば、不思議な石を拾って以来の事だという』
ぴくり、とみあの左手が動いた。
手袋で外から動きが見える程ではないが、頭が急に冷えたのが分かった。
不思議な石。と聞いて今真っ先に思いつくもの。それはこの、紅い石。
男はそんな彼女の様子に気付かなかったのか、記事を読み上げ続ける。
『紅く輝く瞳のような宝石で、何か超常の存在が睨みつけているようだと少佐は語った』
そして男は、そのまま言葉を切る。
みあも何も言わず、残ったコーンをかじった。
夜の冷気で冷えていたとはいえ、ジェラートで冷えた舌には十分暖かさを感じる。
さくさくとコーンをかじる音だけが静かに響く。
『――興味深い話だったわ』
ありがとう、とコーンから口を離したみあがぽつりと告げると、男は何も言わずに新聞を閉じた。
がさり、と最小限の音だけを立ててその新聞は長方形に折り畳まれ、そっとベンチの上に置かれる。
その音を聞くみあは、ぶらぶらと揺らす足に視線を落としながらコーンをさくさくと食べ続ける。
男も、みあもそれ以上何も交わさない。
視線も、言葉も。
何一つなく、男はそのまま踵を返して静かに立ち去った。
残されたのは、コーンをかじる少女。
それから、折り畳まれた新聞。
最後の一欠片を口に放り込んで、みあはベンチから立ち上がった。
きれいに畳まれた新聞を手に取り、コートの内側へと抱き込む。
空を見上げると、冴えた空に星が散らばっていた。
はあ、と大きく白い息を吐き、彼女もまた、元来た道へと足を向ける。
歩きながらマフラーに顔を埋め、彼女は小さくぼやいた。
「……やっぱり、冬にアイスは辛いかもしれないわね」