SCENE2 - 3
「――くしゅっ」
『お母さんっ。猫がクシャミした!』
『あらあら。まだ寒いからかしらね』
そんな会話を交わしながら通り過ぎる親子の声。
「……誰か噂でもしてるのか?」
穏やかな街角。人が多く集まる広場。
イタリア北部の小さな街の一角で、リンドはすん、と鼻を鳴らした。
あの将校の手から逃げたリンドは情報を集め、どこかも分からない土地を歩きながら、小さなこの街へと辿り着いた。
鉤十字の軍人を見かけては彼らを回避し、軒先で夜を明かし。人々が集まって話をする横で餌をもらいながら耳を立てて、情報を集める日々。
人も猫も、どこぞの祭りが近いとか、世界情勢がどうのとか、今日は寒いだとか、当たり障りの無い時候の話題が多い。そんな中、虚空から現れた異邦人に関する話もまた、それらと同じ程度に彼らの関心を集めているようで、あちこちで噂話を耳にした。
曰く。
虚空から現れた異邦人は、ここ一週間程で多く現れた。
ナチス軍が特殊部隊を使って、彼らを集めている。
出現場所はイタリア国内――ヴェネツィア付近に多く、他の場所で捕らえられた異邦人は、そこへと移送されている。
「と、いうことは。ユウキやツカサもヴェネツィアに運ばれる可能性が高い、と言う訳か――」
小さく呟いたリンドは、いや、と小さく首を振る。
このような見知らぬ土地――しかも時代すら違うこのような場所に、有樹が放り込まれてるはずはない。そう思いたい。
だが、周囲の話を聞けば聞く程、リンドはその希望を否定できなくなっていた。
数多くの異邦人。
それは、あのホームに居た人達なのだろう。
その中に有樹少年が居ないはずが、無い。
少なくとも。とリンドは道を進みながら思案する。
少年は、なんとしても助け出さねばならない。
それが、元とはいえ、同居人の安全を守るという猫の仕事だ。
司も、まだマグロをもらっていないし。何より、それまで死なないと約束をした。
ならばそれに、応えなければならない。
「とりあえず――ヴェネツィアだな」
どのような道を辿れば良いのかを訪ねるべく、リンドはその辺の路地へと入り込む。
少し奥へと向かえば、家々の隙間でくつろぐ猫達に出会うのは容易だ。
『――なあ。ちょっと聞きたい事があるんだが』
小さな日溜まりで思い思いに時間を過ごす猫達を見つけたリンドは、にゃぁ、と声をかけた。
夏とは違った穏やかで薄い日差しの中で、白黒の模様をした猫が顔を上げる。
『何だい。君、新入り?』
『道を、聞きたいんだ』
『道?』
ああ、とリンドは頷く。
『ここから、ヴェネツィアへ行きたい』
その単語に、「ヴェネツィア?」「なにそれ」「おいしくなさそう」と、ひそひそと声が交わされる中。
『――あそこはやめておけ』
別の方向から声がかかった。
今の声は、右目に傷を負った猫らしい。彼は小さくあくびをしながら『危ないぞ』と言い。そうそう、と最初に答えた猫も頷いた。
『僕だったら、今こんな時期にあんな所へ行くなんて出来ないね』
『そんなに危ないのか?』
『――お前、“悪魔の船”の話を知らないのか?』
悪魔の船、と鸚鵡返しに聞き返すと、白黒の猫は『そう』と頷く。
『今、あそこにそんな船が向かってるって話さ』
『ほう』
『何でも、ヒトを攫って運んでるって噂だぜ?』
何か企んでいるらしいが、何が起こるか分からない。だからやめておけよ、と白黒の猫は毛並みを整えながら言う。
『――そうか。忠告ありがとう。しかし、俺は行かなきゃいけないんだ』
どうしても、ときっぱりと答えたリンドに、白黒の猫は『そこまで言うんなら、止めないけど』と背中を丸めた。
これ以上関わり合いになりたくない、と言ったその態度が、噂話だけでも脅威になるほどのモノなんだと言う事を語る。
しかし、リンドにはその程度で諦める訳にはいかなかった。
それは、巻き込まれたかもしれない大切な同居人の為であり、危険を冒してまで自分を逃がしてくれた仲間の為だ。
『だから、教えてくれ。ヴェネツィアへの道を』
『……駅に行け』
少しの間を置いて答えたのは、傷を持つ猫だった。
『北へ向かう汽車を乗り継げば、いずれ辿り着くはずだ』
そう言って傷を持つ猫はリンドの前へとやってくる。
『駅は――ほら。あの道をまっすぐ行った先だ』
『あっちだな。ありがとう』
ふい、と視線だけで示された方向を確認して、リンドは路地に背を向ける。
『――そうだ』
路地から離れようとしたリンドはふと足を止め、再度くつろぎ始めた猫達を振り返った。
『その“悪魔の船”とやら。名前とかはあるのか?』
その問いに返ってきたのは、静かな沈黙。
答えたくないのか、知らないのか。その路地裏は日常の風景をすっかり取り戻したかのように見えた。
誰も答える気配のないその空気に、リンドは一つ首を振って前を向いた。
『世話になったな』
そうして教えてもらったばかりの道へと一歩踏み出し――
『“アイゼンオルカ”』
ぽつりと、その名前が響いた。
『え?』
振り返ると、白黒の猫が眠たそうにこちらを見ていた。
『そんな名前だって、聞いた気がする』
『――“アイゼンオルカ”、だな』
リンドは一度だけその名を繰り返し、忘れないように舌へと刻む。
『情報、ありがとう』
ふん、と鼻を鳴らして寝る体勢を取った猫達に礼を告げ。
今度こそリンドは路地裏を後にした。