SCENE2 - 2
そうして閉じられたドアの余韻が消えた後には。
注がれた茶が残るグラス。
椅子にかけたままの司。
そして、その手に握り込まれた小さな紙片が残された。
「……で。この紙、何」
小さく折り畳まれたその紙を開くと、手のひら程度の用紙には数行の文字が認めてあった。
三日後 正午 ヴェネツィア着
兵士の警備が最も薄くなるのは、その一時間後。
「…………………へえ」
日本語で書かれた流麗なそのメモに、司はそんな一言を漏らした。
自分がこの部屋に呼び出された事情も、この紙を手渡された理由も。それが日本語である理由もさっぱり繋がらないが。
自分にとって有益な情報である事に変わりはない。
ありがたいね、とメモをポケットに突っ込もうとして、その手を止めた。
「と。これは持って帰る訳にはいかないな……」
このまま持ち帰って持ち物検査等やられたらすぐに見つかる。かといって、ここに置いて戻るのも、リスクが残る気がした。
んー、とメモを眺めて思案する。
そもそも。隠す必要がない情報ならば、直接話せば良い話だ。
と、言う事は。と、もう一度だけ紙面に視線を走らせた司はその紙を細かく破った。
そして、茶の残るグラスへぱらぱらと撒く。
少しだけグラスを揺すれば、水を吸って沈んだ小さな紙切れが底で舞う。
そして。
沈みきらないそれらを一気に呷った。
飲み干してしまったグラスに何も残ってない事を確認して、息をつく。
「……やたら溶けやすいなこの紙」
ホントにスパイっぽくなってきちゃった? と、ほんの少しだけ微妙な気分に浸る。
が、いつまでもそんな気分で居る訳にもいかない。
「――さて」
椅子から立ち上がって部屋を見渡す。
使っても構わない、と言われたこの部屋は、あの小部屋よりもずっと過ごしやすいに違いない。
彼女が要人相当の立場でこの船に居るとするならば、脱出にも適しているはずだ。
「暖かいベッドとかホント、羨ましいんですけど」
でもなあ、と司は小さく息をつく。
「あの部屋の方が、無難だろうなあ……」
自分があの小部屋に居ない事で、兵士に与える影響は未知数だ。
警備の体制にも、兵士の警戒心にも、もしかしたら彼女の立場にも影響が出るかもしれない。
「仕方ない。戻るか……」
□ ■ □
牢の前まで戻ると、見張りの兵士が扉の横に座り込んでいた。
しょぼくれたというか拗ねたというか。ともかく不満げな顔をした兵士は、戻ってきた司を睨みつけるように一瞥して『鍵は開けてある』と言わんばかりに扉を示した。
司も曖昧な返事をして、ドアノブに手をかける。
『えーっと。なんだ。すまないな』
ちゃんと戻ってきたから許してくれ、という言葉に返ってきたのは相変わらず厳しい視線だけだ。
どんなに不満であっても、何仙姑のやり方には文句が言ないらしい。
一体どんだけ影響力あるんだよあの人、と司はノブに手をかけたまま兵士の方へと視線を向ける。
『そういえばさ、あの人って何なの?』
『さあな』
兵士は素っ気なく答える。
『それは今まで話をしていたお前の方が知ってるだろう?』
『いやそれが……住む世界が違うってことくらいしか』
どんな人かってのはさっぱりだ、とノブから少しだけ手を滑らせる。
『相当立場高そうな気がしたけど、偉い人?』
『――どんな立場にあるかは我らのような兵士には知らされていない』
兵士は不満げに答える。
立場や人物について詳細な情報は無いが、とりあえず彼女に口出しをしてはいけない。彼にとってはそれも不満の種の一つのようだ。
『不思議な力を駆使したり、助言を行うと言うが――大方、要人の愛人か何かだろう』
少しだけ嘲るような横顔に、司は「ふぅん」と一つだけ返して部屋の中へと入った。
いつも通りに響く鍵の音を背に、司は電気をつける事無く右手を見つめた。
その手に残るのは、触れたドアと鍵の感覚。
指先に残る鍵の作りとドアの厚さから、簡単な構造を把握する。
その結果は。
「うーん。思ったより細かい作りしてるなー」
自分には難しいかもしれないな、というものだった。
しかし、それも今の時点での話だ。と、電気のスイッチを入れる。
あのメモの内容が確かならば、そのチャンスを生かせば良い。
そのチャンスは三日後。
それまで司に出来る事と言えば。
「……」
何も無かった。
「とりあえず……寝るか」
そう呟いてベッドに寝転がると、ゆったりとした揺れが伝わる。
「……時がくるまで寝る、なんてなんだか猫みたいだな俺」
小さなぼやきに、灰色の猫の尻尾が重なる。
「そういえばリンド、元気にしてんかな」
捕まった、って話も聞かないし――大丈夫だとは思うけど、と寝返りを打つ。
「ああ。それからあの二人……は、大丈夫だな。うん」
あの容赦のないUGNと、得体の知れない子供。大丈夫でないはずがない。
そう結論づけた司は、緩やかな揺れに沈むように、目を閉じた。