SCENE2 - 1
アイゼンオルカは、ちょっとした停泊をする事もなくどこかへ向かっているらしい。
そんな船の中。
今日も今日とて、実りのない取り調べから解放されて小部屋へと帰された司は、暇を持て余して寝転がるしかなかった。
持ち物は鞄からポケットの中まで全て取り上げられているため、抜け出す事も難しい。
「あー……、もう。何日目かな」
ベッドに寝転がり、冷たい天井を眺めながら呟く。
ひーふーみー、と数えてみたが、毎日同じ事の繰り返しなので日数の感覚がそろそろなくなりそうだ。なんだかそれすらも意味が無いように思えて、数えるのをやめる。
「それにしても……暇だなぁ」
愚痴のように吐き出しながら、と寝返りを打ったた背中に、誰かの靴音と見張りの兵士が慌てる声が聞こえた。
『ちょっ、困ります!』
困惑したように声を上げる兵士の言葉を無視するように、扉が開く音がする。
「河野辺 司……さんですね?」
それは、静かな日本語。
スパイという物騒な容疑をかけられて、日々取り調べを受けるこの身にかけられるはずが無い程に、落ち着いた女性の声だった。
「……え。あ。――はい、そうですが」
突然の声に、司は状況を掴めず起き上がる。
ドアの方を向けば。
結い上げた艶やかな黒髪。派手にならない程度に刺繍が施された朱のチャイナドレス。
こんな所で出会うには似つかわしくない程の、東洋人の美女が立っていた。
彼女はベッドに腰掛けたままの司に向けて、「はじめまして」と微笑む。
「私、何仙姑、と申します。以後お見知りおきを」
「はぁ……どうも」
曖昧な返事にも、彼女は気分を害したような素振りもなく、微笑みも崩さない。
「……えっと、それで。何の御用、でしょうか」
「この船に、兵士に捕らえられて閉じ込められている東洋人が居ると聞いたのです」
と、彼女はすい、と手を差し出す。
「――さぞ気分を害してらっしゃるかとは思いますが。こちらに出てきて、私と話をしませんか?」
「へ?」
話、ですか。と、ぽかんとした表情の司に、彼女は肯定の笑みを返す。
脈絡が無いというか、意味の分からないやり取り。
彼女とは初対面だが、似たような印象を持つ会話を、どこかで交わした事があるような気がする。
その相手が一体誰なのかは思い出せないまま、司は小さく息をついて笑い返した。
「まあ、特に断る理由も無いですし、喜んで。――正直、暇で死にそうだったモノで」
「それは良かった」
では、と何仙姑は司を外へと導く。
それに従ってドアを出れば、頭に超が付く位に不服そうな顔をした兵士が司を睨みつけていた。
どうやら文句満タンだが言うわけにはいかない、という葛藤の結果らしい。
『えーっと。その、なんだ。すまんね』
なんとなく謝らなくてはいけない気がした。
兵士は苛立たしげに目を逸らしただけで、答えてはくれなかった。
□ ■ □
冷たい床に小さな踵の音を響かせて先導する何仙姑を、緩い足取りで追いかけたその先。
無骨な鉄の壁が続く廊下の一角で、彼女は重い扉を開いた。
「さ。どうぞ」
「……すげえ。住んでる世界が違う」
司が閉じ込められてる部屋の数倍はありそうなその部屋は、暖かな明かりで満ちていた。
朱色を基調とした内装。
部屋の隅にあるベッド。その隣にある鏡台には、小さな香炉と髪を結うための道具。
中央に添えられているのは小さな丸テーブルに、数脚の椅子。
どれも洒落た雰囲気で、ちょっとしたお茶会くらいならすぐさま開けそうだった。
「そこの椅子にでも、かけてください」
席を勧めた彼女は、ガラス製のポットから小さなグラスへとお茶を注ぎ、言われるままに椅子に掛けた司の前へと置く。
茶色く澄んだ液体で満たされたそれもまた、シンプルながらも細かな彫刻が施されていて、一目で良いものだと判る。
同じ細工が施されたグラスを持って向かいの席に座った何仙姑は、「さて」と静かに話を切り出した。
「何度も兵士に問い詰められて疲れているとは思うのですが……」
私にも、貴方のお話を聞かせていただけませんか? と、彼女は微笑む。
「……とは言っても、俺、そんな面白い話できませんよ?」
何の話をすればいいんでしょう。と、司はお茶を啜る。
烏龍茶のようなその味は、ここ数日の食生活を忘れさせる程、舌に染みる。
「何でも構いません。貴方が此処へ現れる事になった話でも、生まれた場所の事でも――貴方が歩んできた軌跡でも。なんでも」
静かに彼女もグラスへ口をつける。
うーん。と司は天井を見上げた。
部屋の内装に合わせるように作られたと分かる、天井や照明も洒落ている。
「俺、自分でもどうしてここに居るのかよく分からないんですよね。……気が付いたらここに居たようなものですから」
息をついて、テーブルに戻された何仙姑のグラスへ視線を落とす。
紅の跡一つ残らないそのグラスで、澄んだ液体が揺れる。
「何故ここに居るのか。……そんな事に答えられる者など居ませんよ」
私も、貴方も。かの総統閣下でさえ。と彼女は目を伏せる。
「そんな難しい事など良いのです。貴方の通ってきた道で、貴方の目を通して映ったものを語ってくだされば」
そうして彼女は話の先を促す。
「ふむ。じゃぁ――」
司はぽつりぽつりと自分の略歴を話し始める。
とは言っても、ここは過去だ。FHだのUGNだのと言うわけにはいかない。ここが自分達の未来に繋がっているとすれば、どんな些細な情報が影響を与えるか分からない。
過去に余計な知識は置いていきたくないしなあ、と司は言葉を選びながら語る。
国の事。自分の事。ここに来る直前の事。
できるだけ曖昧に。けれども筋だけは残しながら。司は語る。
「――それで。気が付いたらドイツ軍に囲まれていた、って訳です」
「……そうですか」
適度に相槌を打ちながら聞いていた何仙姑が漏らした感想はそんな一言だった。
無感動、という訳ではない。
とはいえ、簡単に感情が読めるような表情ではない。
なにか、複雑な思いがあるような、そんな声だった。
そうして、しばしの沈黙。
「話してくださり、ありがとうございます」
暫く何かを考え込んでいた何仙姑は、そう言って微笑んだ。
「いえ、これで時間潰しにでもなれば」
「ええ。大変有意義な時間でした――あら。もうこんな時間」
壁にかけてあった時計に視線を走らせて、彼女はすっと席を立ち、司の隣へとやってくる。
「申し訳ありませんが、私、これから此処の方と会う約束がありますので失礼いたします」
「あ、はい」
「良ければまた、お話ししてくださいますか?」
「ええ。まあ俺で良ければいつでも。どうせこの船に居る間は暇なんで」
自嘲気味に笑った司に、何仙姑は「ありがとうございます」と司の手をそっと取った。
ほんのり冷える両手で司の手を包むように一度だけ握り、彼女はドアへと向かう。
ドアノブに手をかけた何仙姑は、椅子にかけたままの司へと振り返り、微笑む。
「では。貴方も気をつけてお帰りなさいませ」
この部屋を使われても構いませんが、という言葉を残して、彼女はドアの向こうへと消えた。