SCENE1 - 2
広がる海原と青い空は、今日も船旅が順調である事の証拠だ。
この船上に放り出されてから三日が経過し、このまま順調にいけば数日中に目的地へ到着できそうだった。
突如船上に現れたみあと霧緒だったが、桜花が言語面でのサポートをしてくれたり、二人と周囲の関係を上手く取りなしたりと、あれこれ世話を焼いてくれたおかげで船旅は無事に進んでいた。
誰とでも仲良くなれるその笑顔に、二人が救われたのは言うまでもない。きっと、彼女が居なければ船上での扱いは随分と違ったものになっていただろう。
そんな穏やかな船旅も終盤。
みあは船内の廊下を歩いていた。
歩く度に、二つに分けたお下げ髪がコートの肩口で揺れる。
考えるのは、このまま陸地についたらどうするか、という事。
どうするか、と言っても。彼女には、この時代に飛ばされて困る事も、元の時代に戻らなければいけない理由も無かった。
「書き記す者」は、周囲に存在するレネゲイドウイルスを観察し、その記録を重ねてきた存在だ。それが、これまでも、これからも。どこに居ようとも変わる事無い彼女の存在意義。
そうね、と小さな唇が動く。
一度記録した歴史を、もう一度なぞってみるのも良いかもしれないが。
「とりあえずは彼女――かしら」
それは、この船に同乗するUGNの少女。
渋谷駅で見つけたいくつかの観察対象。うち数名とははぐれてしまったが、幸いにも彼女は同じ場所に居た。
もしかしたら他の二人もどこかに居るのではないか、と彼女は言っていた。
陸地に着いたら彼女はどう動くのだろう。
彼らを探す? 元の世界に戻る手段を模索する?
そのために何をするのだろう?
それから。この紅い石は何なのか。
何故この時代に飛ばされたのか。
その意味は? 理由は? 結果は?
「観察」すべき事は多い。きっと、楽しませてくれることだろう。
そんなことを思いながら、甲板へと繋がるドアを開けた。
隙間から容赦なく入ってくる冷たい風に思わず身をすくませながらも外へ出た彼女は、景色を楽しむ桜花の後ろ姿を見つけた。
「桜花さん」
「あら。みあさん」
こんにちは、と桜花は風に舞った黒髪を抑えながら、みあに笑いかける
「お散歩ですか?」
「うん。お姉ちゃんはお手伝いしてるし……ご飯まで時間があるから」
桜花さんは? と首を傾げると、「私もですよ」という答えが返ってきた。
そっかー、と答えながら桜花の隣に並ぶ。
「もう船旅には慣れましたか?」
ふと問われたその言葉に、うん、と頷く。
「もう何日か経つけど……みんな仲良くしてくれるし、楽しいよ」
「それは良かった。霧緒さんも打ち解けてるようですし……」
「うん。こうやっていられるのも、桜花さんのおかげだね」
ありがとうございます、と頭を下げると、桜花は「いえいえ」と照れたような顔をして軽く首を振った。
「気にする程の事ではありません――あ。ほら、もう陸地が見えますよ」
「ホントだ」
桜花が袖で示した先に視線を送り、みあも同様に海面へ向かう。
「ようやく陸ね。船の上って周りは水ばっかりで退屈で仕方ないわ……」
はふう、と息をつくみあに、桜花は「そうですか?」と疑問そうな声が返ってきた。
「私は楽しいですよ。――海と言っても故郷とは大分違いますし」
ちらりと見上げた彼女の横顔は言葉通り、とても楽しそうだ。
「気候が違うからでしょうかね。それに――同じように見えても、あの向こうには自分の常識が通じない何かがいっぱいあるんですよ」
ね、楽しそうじゃないですか。と桜花はにっこりと笑いかける。
出会ってから数日。いついかなる時も、どんな話題でも彼女はこんな感じで、退屈を知らないというか、何にでも楽しみを見いだしているようだった。
時折、仮面から覗いた口元を彷彿とさせる事もあるが、表情は随分と違う。
「桜花さんはいつも楽しそうでいいね。あたしも海賊とか巨大生物でも襲ってくるような刺激的な出来事があれば別なんだけどなー」
波を割って出てくる巨大怪獣や、海賊との戦闘を思い浮かべるみあに、桜花はくすくすと笑った。
「こんな街の近くで海賊なんて出来る時代ではありませんよ。――もう二十世紀なんですよ?」
巨大生物はまあ、通用しない理屈ですけど、と少しだけ苦笑する。
「それにしてもみあさん、意外と冒険好きなんですね」
みあは潮風に目を閉じながら頷く。
「だって刺激が足りないと人間なかなか動かないからー」
「あら、随分大人びた事を」
「そして出てきた海賊とかその他をあたしがちぎっては投げちぎっては投げ! ってやるんだよ!」
とりゃー、と海へ向けて拳を突き出すと、桜花は「もう、お転婆なんですから」と笑って、後ろ手に手すりへと寄りかかる。
「まるで男の子みたい――あいたっ」
一瞬だけ顔をしかめて手すりから身体を離す。桜花が返すように翳した手、その指先に小さな木片が刺さっていた。
手すりがささくれていた所に引っかけてしまったらしい。
「桜花さん、大丈夫?」
「ええ」
桜花が細い指先でその木片を引き抜くと、裂けた傷口から血が流れた。
「血が。早く洗って消毒しなきゃ!」
ばいきん入っちゃうよ! と手を取ろうとするみあに、桜花は「大丈夫ですよ」と笑いかける。
「このくらい、唾をつけておけばすぐ治ります」
と、桜花は躊躇いもなくその指を口に含む。
ぱちり、と瞬きをする程の間も置かずに取り出し、みあに再度手のひらを翳す。
「ほら」
その指先には、もう血など流れていなかった。
そればかりか、木片が刺さっていた痕すら見当たらない。
「ホントだ。大した事なかったんだね」
血が出たからびっくりしちゃったよ、とほっとしたような顔でみあが笑う。
が、その目は桜花の指先をしっかりと記録に留めていた。
目を見張るような再生能力。
指を口に含んだ為、その経過は見る事が出来なかったが、その能力には簡単に理由がつく。
それはまるで――。
「まるで――《リザレクト》みたい」
一瞬だけ色の違う視線が桜花へと向けられる。が。彼女はそれに気付く事なく「そうなんですよー」と答える。
「昔っから、傷の治りは早いんですよねー。体力には自信あり、ですよ」
ふふふ、と少しだけ自慢げに笑う。
傷の治りが早い、ね。
なるほど。と、誰にも気取られない程の笑みを、無邪気なそれに変える。
「桜花さんもそうやって笑うとお転婆に見える」
「え。そうですか?」
「うん。人の事言ないよ」
「あら。それは困りましたね」
全く困ってないようにころころと笑った桜花は、「と。そうだ」と手をぱちん、と合わせてみあへと向き直る。
「なぁに?」
首を傾げて問い返すと彼女はとても楽しそうに言葉を続けた。
「もうすぐ、ヴェネツィアはお祭りの時期なんだそうです」
「お祭り?」
疑問そうな鸚鵡返しの言葉にも、笑顔のまま頷く。
「カルネヴァーレ――謝肉祭、ですね。丁度その時期らしいんですよ」
「へぇ」
それでですね、と彼女はにこにこと続ける。
「陸に上がったら、みあさんと霧緒さん。三人で一緒に回りませんか?」
「わぁ。いいんですか!」
「勿論ですよ。その方がきっと楽しいです」
「うんっ。面白そう。あたし、ヴェネツィアって初めてだから、一緒に居てくれる人がいたら心強いよ」
手放しで喜ぶみあに、桜花も「そうですね」と笑いかける。
「――あぁ。じゃあ霧緒お姉ちゃんにも伝えてこないといけないね」
「そうですね。お願いしても良いですか?」
みあはうん、と元気よく頷いて桜花に背を向ける。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるよ。また後でね!」
「はい、お願いしますねー」
手を振って見送る桜花に「まかせてー」と手を振り返して駆け出した。