SCENE1 - 1
レンガ作りの家。
石畳の道。
青い空。
それから。
町を全力で駆け抜けていく、灰色の猫。
司と別れた直後。リンドは、小さな路地を駆けていた。
司を残してドイツ軍の包囲を抜け、逃亡した。そこまでは良かった。
しかし、リンドがただの猫ではない、と見抜いた男があの中に一人だけ居たのだ。
部隊を指揮していたあの男。
あの青年だけが、彼を追いかけてきた。
どんなに裏道に逃げ込んでも、回り道をしても。
決して見失う事なく追ってくる。
どのくらいそうやって逃げたのだろうか。
「アイツ……しつこいな。何者だ?」
追いかけてくる青年の影をちらりと振り返り、リンドは人が入る事などできないような小道へと駆け込む。
猫数匹程の小さな隙間を抜け、その先へ。
そして隙間を抜け出し、人通りのない道を横切ろうとしたその時。
背後から何か雄叫びのような声が聞こえた。
最初は遠かったその声はだんだんと近付いてきて。
「う――おぉぉぉおおおッ!」
石畳に響く轟音と共に、リンドが今し方出てきた隙間を塞ぐように何かが着地した。
舞った砂埃がリンドを追い越し、微かに笑い声が漏れ聞こえる。
『ふ……ふふふ。もうこれ以上は逃がさんぞ超人――もとい、超猫』
晴れる砂埃の中で笑うのは、片膝をついた姿の青年。
金髪の髪に青い瞳。きっちりと着込んだ軍服は多少の砂埃でもその威厳を崩さない。
ずっと自分を追ってきた彼に、リンドは小さくため息をついて口を開く。
『……お前、相当しつこいな』
ここまで追いかけてくるとは呆れるに相当する、と振り返ると、逃がすまいと光らせた視線がぶつかった。
『それで、お前。何者だ?』
その声に青年は『やはり、普通の猫ではなかったか』と目を光らせる。
『俺が普通の猫かなんて、どうでも良い』
お前は何者だ、とリンドが今一度問いかける。
『よくぞ聞いたな。猫よ』
ふ、と笑った青年は、気合いを入れて立ち上がった。
マントがあれば、きっとそれを翻すくらいの事はしただろう。
『私はドイツ軍特務少佐、コルネリウス・バルト! 総統閣下に頂いたこの力、たかが猫一匹に後れを取る訳にはいかんのだ!』
そう言って青年――バルトは目の前の猫を狙う視線に力を込める。
司も言っていたが、どうやら本格的にナチの世界らしい。
改めて実感したその事実に、リンドは軽い目眩を覚える。
あのとき感じた、どうにかしないと不味い予感は正しかったらしい。
『――それで。その少佐殿が俺を捕まえてどうしようと言うのだ』
『無論! その力を総統閣下の為に役立ててもらうのだ』
バルトは「当然だ」と言わんばかりに言い切る。
『紅い光と共に現れる異邦人は残らず捕らえる、そうしてお前達は総統閣下の力となるのだよ!』
それがたとえ猫一匹あってもだ、と彼は誇らしげに笑う。
『あまりの光栄! 過福! 貴様にその力を与え給うた総統閣下の為に働ける事、泣いて感謝するがいい!』
『……馬鹿かお前は』
この力は総統閣下から与えられたものなどではないし、そんな事に使う気もない、とリンドは呆れた視線をバルトへ向ける。
その視線に返ってきたのは、嘲るような視線。
『ふん、この光栄を理解できぬとは不幸にも程がある。――だが、すぐにそんな事も言なくなるぞ!』
そう言ってバルトが身構える。
リンドもそれに応えるように身構える。ここで捕らえられてしまっては、逃げ出した意味がない。
戻る時があるならば、それは司を助けるだけの手段が整ったその時だけだ。
『生憎だが、俺はヒゲなどに興味はない』
そしてするりと背を向け、道の向こう側へと駆け出す。
『追いつけるものなら追いついてみろ』
『く、逃がすか――!』
声を上げて走り出そうとしたバルトは、言葉を切って足を止めた。
「?」
路地の入り口で足を止めたリンドは、彼の脚から微かに煙が上がっているのを見た。
煙に乗って、焦げ付いた匂いも微かに漂う。
『ち。――時間か』
顔をしかめたバルトは「無理をしすぎたか」と忌々しげに舌打ちをして、リンドを睨みつける。
『猫め。次は――次は必ず捕らえてやる』
それまでに覚悟を決めておくんだな、とバルトは片足を引きずるようにして踵を返す。
そうしてリンドが見送る目の前で、彼は路地へと姿を消した。
バルトが居なくなったとはいえ、安心は出来ない、とリンドは小さな路地の影に潜んで息をついた。
「やれやれだ。――あんなに馬鹿がいたんじゃ戦争にも負ける訳だ」
あの盲目なまでに忠誠を誓ったような態度を思い返し、リンドは首を振る。
「いや、アイツの事は良いんだ。それよりも――」
と、リンドは先程交わした会話の内容を拾い上げる。
「紅い光と共に現れた異邦人は全て捕らえる、か」
異邦人、と纏めて称するという事は、少なくとも一人二人の例ではないのだろう。
そして、自分と司はその対象として考えられているようだ。と推測する。
となると、他には。
「キリとミア――いや、もっと、か?」
もしかしたら、あの場所に居た全員が巻き込まれた可能性だってあるに違いない。とリンドはヒゲを弾く。
そうなると。
「まさか、ユウキも――?」
あの船に捕まっているのか、もしくはこの地のどこかに居るのかもしれない。
そう思った瞬間、居ても立ってもいられなくなった。
「とりあえず、情報を集めてみるか――」
居るかもしれない少年と、彼女達に会うために。
リンドは先を急ぐように駆け出した。