CLIMAX - 8
岩のような鱗が剥がれ落ちていく。一層紅く輝く女王の声の中に混じる霧緒の声を、みあの耳は逃さなかった。
「あら……まあ。これはちょっと大変ね。リンド、ここは任せたわ」
言うが早いかみあも駆け出し、身軽に隣の足場へと渡る。
距離にするととても僅かではあるが、近付くと女王と霧緒、二人の叫びが耳に響いた。女王は紅い首を振り回し、霧緒はその結晶に濡れて膝をついている。
「何が起きてるかは見えないけど……良い状況じゃないのは確かね」
この音を打ち消せばきっとなんとかなるはず。と、みあは呼吸を整えて、通る声を波にする。
「♪、♫、、♪――」
旋律ではない純粋な波として。女王の叫びの波を乱し、その隙間を縫うようにして霧緒へと歌いかける。
二つに増えた女王の首にもその波は届いているはずだが、じわりと黒く染まった箇所はすぐに元の輝きを取り戻していく。今の女王には何一つ届かない。彼女の動きを鈍らせるだけで精一杯だ。一方、霧緒の方には変化が見えた。踞った霧緒の声がふっつりとやんで、ヘッドホンが紅く輝いたのが見えた。
視界が紅く染まって、何も考えられなくなった霧緒はただ頭を押さえて蹲っていた。
武器を手放した事も、防御も攻撃の意志も喪失している事に気付かず。紅い石に閉じ込められたような、自分の末端からパキパキと鉱石になっていくような感覚に怯えていた。それは自分の中にも染み込み、血液と混じって霧緒自身を締め付ける。
「――!」
声は出ない。透き通る紅の雫が、見開いた瞳から零れる。頭が痛い。全てを手放したくなった瞬間。
――ざざっ。
耳元に小さなノイズが混じった。
端子の先には何もないはずのヘッドホンから、幼い歌声が微かに聞こえてきた。
「……こ、え……?」
そっと、そのヘッドホンを押さえる。
ノイズ混じりのその歌は、旋律だけのようにも、歌声のようにも聞こえる。
声は幼い少女のようであり、声変わりを終えた少年のようでもあった。
それは、世界を愛してやまない声。
霧緒はふと、紅い煌めきを目にしたような気がした。紅い視界にそんなの見えるはずもないのだけれど、それは。その煌めきは確かに己の左手にあった。
霧緒はこの紅に打ち勝たねばならない。その決意は、簡単に打ち砕ける物じゃない。
「ああ……うん。うん……そう、でした」
頷いて、彼女はふらりと立ち上がる。頭の痛みはじわじわと引いている。ヘッドホンから零れる歌が痛みを緩和していく。くらくらするが故に、調子が良い。そんな気分だ。
「ふふ。なんだかとても気分が良い――そんな気がしますね」
霧緒はちょっとだけ口元を緩め、刺さったままだった武器を引き抜く。
がががががん! と、大きく伸びた女王の首に大量の何かが着弾した音がした。
こういう音を立てるのは銃弾しかない。降り注ぐ岩を、鎌の刃先と柄の先を器用に回して細かく砕き、回避する。
視界はまだ紅い。けれどもそれ故によく見えるものもあった。降り注ぐそれらの速度は酷く遅い。少なければ避けるのは容易い。が、雨のように降り注ぐ銃弾は、降ってくる女王の欠片よりも多く、小さい。いかに遅くとも、この量では対応が間に合わない。
「ああ本当……っ、遠慮のない、方です――ね!」
銃弾と岩粒の雨を重力で弾き飛ばし、鎌で軌道を変えて当たるのを防ぐ。が、数発の銃弾が霧緒の髪を散らした。少しだけ眉をひそめ、ヘッドホンに手を添える。指先に傷の感触はない。魔眼は大丈夫だ。それだけを確認し、銃弾をもう一方の手の鎌で捌きながら、ぽつりと呟いた。
「彼には私の髪が不揃いだった事を、後で感謝してもらいましょうか……」
司は女王の変化を注視しながら、マガジンをリロードする。
自分の視界がリアルタイムなのか、演算結果のシミュレーションなのか、もう判断が付かなくなっている。頭の中では正確な計算と感情的な衝動がぶつかり合って喧しい。
とりあえず目の前の女王が動かなくなってくれればこれも収まるだろうが……そろそろ鞄の中身も尽きそうだ。
「結構大量に用意したはずだけど――ま。宇宙決戦ならいくらあっても足りないってもんだろうな。最悪あるもん全部かっ飛ばして、粉々に砕くか」
頷きながら引き金を引く。真直ぐ飛んでいく銃弾は全て女王へ向けて飛んでいく。土砂降りの雨のように降り注ぐ銃弾と打ち砕かれる岩石。その中にちらほらと紅く煌めく何かも見える。
「これで随分と削りきれるはずだが、さっさと岩屑になってくんねえかなあ」
星屑なんて言葉も似合わねえ、と司はぽつりと呟き――「あ」と何かに気付いたような声をあげた。
女王の二本目の首。翼。背中。尻尾。全てに着弾したその中に、誰か居なかったか?
「……いっか」
きっと大丈夫だ、と、司はあっさりとその可能性を計算結果から外し、演算を再開した。
「むう」
遠くで暴れる女王。菊花とフェイは目を細めてその戦況を見極めていた。
「もう一押し、という所じゃな」
「ふむ……もっと具体的には分からないか?」
猫の目では少し遠い、とリンドが問うと、フェイは首を横に振った。
「さすがにそこまではっきりと判断したいなら、お前達の空気と重力は保証できんぞ?」
「すまなかった」
その答えにリンドはふるふると首を横に振った。フェイはそれに呵々と笑い、「しかし」と言葉を続けた。
「女王のやつも結構苦戦しておるのう。ほれ、あっちの“砲撃手”の銃弾と背中の”死神機巧”が邪魔で仕方ないらしい」
そう言って視線で示す女王の首は、銃弾に砕かれながらも背中の少女をしかと見つめているようだった。
女王の口が大きく開く。
崩れ落ちる岩肌と紅い液体。それすらも攻撃手段に変えんと吼えた。
霧緒には女王の叫び声がしっかりと届いていた。降りしきる紅い、銀色の、岩石の、重力の。全部が混じった雨も見えていた。だから、何も言わず。ただ見据えて、鎌をくるりと回した。
刃で切り裂くのではない。柄の先がつい、と光を弾き尾を引いて真円を描く。繋がったラインは光ひとつ逃がさない漆黒の盾のように全てを受け止める。
盾の下で、霧緒は降る雨の音を見上げた。そっと、ヘッドホンを指で叩く。と、呼応するかのように、ヘッドホンの目が開いた。
「全て――止めて差し上げましょう」
その一言すらも、音にはならず。きいん、という小さな音で全てが動きを止めた。紅く濡れた目が、静かに見据えて瞬きをする。
次の瞬間、女王の降らせた重力と霧緒の盾の間で全てが粉々に砕け散った――ように、見えた。
「な……!?」
霧緒の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
全て砕いたそれが、降り注ぐ雨が。自分の描いた光の弧が。巻き戻っていく。
巻き戻るだけではない。それらは一つに巻き上がり、形を為し、もう一つの首となった。
「一体……これは……」
思わずヘッドホンを押さえる指に力がこもる。魔眼は確かに発動している。時間は確かに止まった。そして全てを砕ききった。そのはずなのに。その中で更に時間の主導権を奪い取られた。
それは一体どういう訳か。発生源はすぐに見つかった。
二本目の紅い首。既にまともな形を為してない一本目の首は動きを止めたまま。その隣の瞳が、霧緒を真直ぐに見下ろしていた。
一本目の首と二本目の首、そして今形作られた三本目の首。
それぞれが時間を操る術を持っている?
「もしかして、もしかしちゃう訳ですか」
これは三本いっぺんに斬り落とすしかないかもしれませんね、と霧緒は思わず溜息をつきそうになった。
三本目の首は霧緒を一瞥し、口を開けた。
その中は他の二本とは異なり、どこまでも深く暗い闇のように見えた。
「A――AAAAAAAAA! AAAAA"AA!!」
吼えた。その奥に大きな目が覗いたのを、霧緒は見た。