SCENE3 - 11
その一言で視線が跳ね上がった。背筋から尻尾までぴんと伸び、毛が逆立っているのが分かる。でも、それらはすぐに収まり尻尾は力なく欄干へと垂れた。が、視線だけは外せなかった。
少年は、穏やかに笑っていた。その目に、口元に嘘はないように見えた。
彼が口にしたのは、かつて自分が残した言葉だ。一緒に居れば居るほど、彼の身に降りかかる危険が恐ろしくて別れを告げた時の。
あの時自分はどんな顔をしていたのだろう? 分からない。心配で、心細くて、ほっとしたと思う所もあったのだけは覚えている。
「……オマエは、笑えるんだな」
少なくとも。今、目の前にある表情ではなかった。
「俺は、こんなに、こんなに――」
悲しいのに。
言葉が、視線と共に落ちた。
「リンド。僕は、信じてるんだから」
石畳へ軽く飛び降りる足音がした。
「今から僕が頑張ったら……ちゃんと未来はリンド達に。ううん、僕達に繋がるって。だから……悲しくなんか……な、いんだ」
すん、と小さく鼻をすする音がした。
強がってなどいない。そんな訳などないのだ。リンドが気付いて顔を上げた時にはもう、有樹はリンドに背を向けていた。空を、どこか遠くを見上げていた。
「――ユウ」
「あのね、リンド」
少しだけ掠れた有樹の言葉に、リンドの声が詰まる。
「船で会った人達ね。みんないい人達だよ」
「……そう、か」
「うん。みんなで話してたんだ。頑張って生き延びようって。それで、いつか日本に帰ろう、って。だから……みんなで、頑張るよ。僕、ひとりじゃないから。寂しくなんて、ない。から……っ。だから、さ」
声が震えていた。
夜中にうなされては目を覚まし、自分を抱きしめなければ寝付けなかった程の夢が目の前にある。そんな中で、自分をここに残して行っておいでよと背中を押す。
小さく幼い身体と心で、どれだけの感情を抑えているのか計り知れなかった。俺は一体何をしているのだと思い知らされる。彼の心の強さに、くらくらする。
「……ユウキは、強いな」
「リンドと会えたから、だよ」
「――はは」
零れたのは、笑い声にも似た鳴き声だった。
「ああ、俺もユウキと会えて強くなった、って胸張って言えるように頑張る。――だから、約束するよ」
欄干を降りて、有樹の足元にすり寄る。顔は見ない。けれども声は届くよう、近くに。
「俺は、オマエが見た夢を二度と現実になんてしないようにする。そのような可能性、欠片も残さない。オマエが頑張ると言ったんだ。それを無駄になんか絶対しない。その為に頑張ってくる」
「うん……うん。約束、だからね」
「ありがとう――また、会おう」
「うん。また、ね」
雨がぽつりと、降ってきたような気がした。
リンドはそっと少年の元を離れる。
数歩進んで、「そうだ」と足を止めた。
「あのさ」
「なに?」
二人とも背を向けたまま、言葉を交わす。
「いつかオマエの近くに、俺ととてもよく似た猫が来るかもしれない。どんな姿で現れるのかは分からないが……そいつの事、大切にしてやってくれ。俺より……そうだな、マグロの缶詰二缶分くらいの差で待遇してやってくれ」
「――はは、分かった。日本のお刺身たくさん食べさせたげよう」
「ああ、頼んだ」
うん。という返事に振り返ると、有樹はリンドの方を見ていた。鼻の頭と耳が赤い。口元は笑っていた。
「必ず、また会えるさ」
「うん、また、会おうね」
リンドはしばらく彼を見上げ。
「それじゃあ――行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
くるりと向きを変えて離れる。今度こそ、そこから立ち去った。
橋にひとり残った少年は、リンドが駆けていった路地をいつまでも見ていた。
きゅっと結んだ口が、震える。
「――っ」
唇を噛み締めて。手を、白くなりそうなほど握りしめて。
息が喉に詰まっている。それをどう逃がしたら良いかを考えるより先に、涙が出た。
「う……っく」
慌てて袖で目をこする。空を見上げて、はあ、っと大きく息をつく。肩から力を抜くと、頬から顎へ伝う雫が襟を濡らした。
だいじょうぶ、と呟いてみたが、言葉にならず歯が鳴った。
「……うぅ」
拭っても拭っても、涙は止まらない。
「う……ひっく……――う、うわあああん」
堰を切ったように出た声は、止まらない。
重い空の下。少年はひとり、声をあげて泣いた。