SCENE3 - 10
有樹は近くの橋から道行く人々を眺めていた。
リンドに待てと言われてひとり、おとなしく待っていた。
リンドがその橋に着いた時、有樹は道行く人々を離れた所から見て微笑んでいた。
けれどもその微笑みがどうにも寂しそうに見えた。
そして自分は、今から彼へ別れを告げなくてはならない。
ふと、彼に寄る足が止まりかけた。
小さく首を横に振り、心を落ち着かせて彼へと近寄る。
「ユウキ」
「――リンド」
足元近くまできて名を呼ぶと、少年もまた頷くように名を呼んだ。
そこで二人の言葉は自然と途切れ、視線は道行く人々へと向く。
賑やかな声がする。
橋の上には、二人だけだ。
「お祭り、すごかったね」
「そうだな」
「……ここの食べ物は、おいしいかな」
「……ああ、美味いだろうな」
ぽつり、と会話が落ちては消える。
このままではいけない。リンドは喉に詰まった話題をなんとか音にする。
「なあ、ユウキ」
「うん?」
「あのな、ユウキも分かってるだろうが……俺達は、面倒な事に巻き込まれたみたいなんだ」
うん、と少年は頷く。
あまりにも素直な返事に、リンドは自分の言葉を見失った。
足元になんて石畳しかないのに、それを探そうと視線が落ちかけたその時。
「ねえ、リンド」
有樹の声がリンドの視線を上へと引き上げた。
「うん?」
リンドを見下ろす有樹は、真直ぐな目をしていた。
「世界は、守れそうかな」
その言葉で、理解した。
彼は知っている。
自分がどうしてここに居るのか、かつての飼い猫が何を言いに来たのか。
そして何をするべきなのか。全部知っている。そういう目をしていた。
「……分かってるんだな」
うん、と頷く少年にできるだけ近付こうと橋の欄干へ飛び乗る。寄り添うように、けれども微妙に距離を開けて。背筋を伸ばして座ると、少年も欄干へ背を預けて口を開いた。
「夢をね、見てたんだ」
「夢?」
ああ、このやり取りは覚えている。もう無い未来で。公園で交わしたあの時と同じだ。
唯一違うのは、有樹の感情だ。
あんなにも不安そうだった目と声は、今こんなにも穏やかだ。
「そうか。時々うなされていたのは知っていたが……」
「そんな時に目を覚ますと必ずリンドがそばに居てくれたね」
「飼い猫の役目だからな」
「そっか」
少年は小さく笑う。
「それで、どんな夢、なんだ?」
「うん。リンドがね。僕の眠ってる間に、じゃあな、ってどこかに行く夢」
それから、と彼は言葉を続ける。
「リンドがどこかに行って、駅で何か大変なことが起こって。それで、みんな――世界中が滅茶苦茶になって。僕はもう死ぬまで家に帰ることができない。そんな夢。だから」
だからね、と有樹は言葉を繋げ直した。
「船に乗せられた時から、なんとなく分かってたんだ」
「そう……だったのか」
「うん。多分ほかのね、えっと、異邦人、って言われたっけ。その人達と一緒じゃなかったら僕はきっと目も耳も塞いで、これは夢だって信じようとしなかったと思う」
リンドは清々しく語る少年が見ていられなくて視線を落とした。
「最低だな。俺は……何も気付かなかった」
「仕方ないよ。夢だって僕しか見てないし。リンドに話したこともなかったからね」
でも、そばに居てくれたのは嬉しかったな。と少年は笑ったようだった。
「夢はね。ちゃんと続きっていうか……少しだけど話があるんだよ」
「続き」
繰り返すように呟いて視線を上げると、頷いたのか彼の髪が揺れていた。
「僕は小さな島でずっと考えてるんだ。リンド達に何を残そうかって。ノートとか黒板とか、そんなのに難しい文字いっぱい書いて、一生懸命考えてた」
「……」
僕にはまだよく分かんないけどね、と話す有樹の声は少しだけ前を向いていて、リンドは何も言えなかった。
それは彼に話した事もない自分の故郷だとも。
未来で見た浅島博士と呼ばれていた老人の事も。
「それから、色んな人と話をしてたよ。僕以外にも何か残せる人が居るのかもしれない。リンドが知ってる人も居るのかなあ」
それはきっと、葛城の当主だ。
百年を知る研究者だ。
それから。歴史を見つめ記録する者だ。
「ああ……そうだな。色々、会っている」
有樹は「そっか」と言ってリンドの隣に腰掛けた。
欄干に座って並ぶ猫と少年。二人で見上げる冬の空は冷え冷えとしていて、日本のそれより重い色をしているように見えた。
「船の中で考えてたんだ。もしあの夢が本当なら。僕がここに居るのは、滅茶苦茶になる未来をどうにかしようって頑張るためだって。これから僕達のやることが、リンドに繋がる。だったらやらなきゃ」
だって、と有樹は笑う。
「僕は、リンドの飼い主だよ?」
リンドはその言葉に言葉を失った。何を言えば良いのか、分からなかった。
「リンドがこれからどうするか、分かってるつもりだよ。だから僕は止めない。だって、リンドの意志を尊重するのが飼い主の役目――でしょ?」
彼は足を少し揺らす。
「どうしたら良いかなんて今は全然分からないんだけど、大丈夫。僕はひとりじゃ、ないから」
少年の手が、そっとリンドの頭に触れた。これまで何度もやって来たように、優しく撫でられる。
「はは、あったかいや」
「オマエの手は冷たいな。――なあ、ユウキ」
「なあに?」
「実の所な、俺はオマエに何を言えば良いのか分からないまま来たんだ」
「なにそれ」
有樹がくすくすと笑う。
「でも、オマエの話を聞いて分かったよ。俺は、謝りに来たんだ」
それと、と言葉を繋ぐ。
「お願いに」
「お願い?」
何? と手を離して彼は問う。
俺は、とリンドは言う。
「俺は、また行かなくちゃいけない。オマエをこの場に置いて、傍を離れなくてはならない」
ふるりと首を振って、リンドは続ける。
少年と交わした言葉を、約束を。
あの時の決意をもう一度口にする。
「俺は、オマエを守りたい。だが。だから、その為にオマエを一人にしなくてはいけない」
「うん」
「だが、俺はユウキを守る為に、傍に居る。姿が見えなくても、ちゃんと守っている、から――」
言葉が、続かなかった。
一体どんな顔をして言えば良いのか。有樹は賢い少年だから、何を言っても受け入れるだろう。だからこそ、言葉が続かなかった。
「リンド」
「――何だ?」
「お別れを、しようか」