SCENE2 - 1
旅は順調、と言えた。
この時代にドイツを縦断するというのはある意味危険ではあったが、大都市を極力避けながらスイスへと抜けた。
電車に乗り、時には歩き。情報を集めながら無事イタリアとの国境付近まで来た。
異邦人の噂が広がり始め、追ってナチス軍が特殊部隊を結成したという話、それから世界情勢――主にこの国近辺の話も入ってきた。時代が着実に進んでいるのを肌で感じる。
「きな臭くなってきたな」
集めてきた情報に司がそんな感想を漏らしたが、自分達が疑われるような事はなく――あってもなんとか切り抜けてここまで辿り着いた。
「明日は国境越えられそうね」
「うん」
「今日はここらで休もうか。もう日も落ちるしなあ」
「全く……欧州は日没が早い分店じまいも早いからな」
リンドが零す。それが日本との文化の差、時代の差でもあるのだろうが。
「郷に入っては郷に従え、って事だろうよ」
はいはい宿探すよ、という司の言葉にリンドは「そうだな」と一つ頷いてその足元を追った。
そうして無事に国境も越え、イタリアへ入った。
ヴェネツィアまでもう少し。そんな朝。
なんだか早く目が覚めてしまった霧緒は、ストールを羽織って外へ出た。
夜明け近い時間だが、空はまだ暗い。
白い息を吐きながら空を眺め、桜花と初めて出会った時の事を思い出していた。
船の上で目が覚めた時の心配そうな顔。自分とみあを、船に居られるよう話を通してくれた事。言語が不自由な自分に、つきっきりで教えてくれた事。船内の喧嘩をあっという間に収めた事。祭りでの笑顔。仮面を持ってはしゃぐ姿。リンドを連れて食事をした事。船を借りた時の事。それから――もう動かない、痛ましい姿。
あれで世界は、歴史は変わった。
もし彼女が生きていたら、その後はどうなったのだろう。
「日本に帰って、紅月さんと結婚して……」
いいなあ、と口元が緩む。
彼女ならきっと素敵な家庭を作るだろう。日本は戦争への道を突き進むから、困難も多く立ち塞がるだろう。
けれども桜花なら大丈夫だ。
そんな彼女達の幸せの、未来の為に。そして多分、みあの為にも。今この道は繋がなくてはいけない。その為には、彼女をしっかりと守らなくてはいけない。きちんと日本へ帰れるようにしなくてはならない。
「うん、しっかりしないとね」
「何をだ?」
「――っ!?」
突然かかった声に振り返ると、玄関へ続く数段の階段に行儀良く座る灰色の猫が居た。
「リンドか……びっくりした」
詰まりかけた息を下ろすように胸元を押さえて息をつくと、リンドは小さく鼻を鳴らした。
「こっちの台詞だ。こんな朝早くに散歩か?」
「うん。ちょっと目が覚めたから」
ずれたストールを羽織り直して、リンドの隣へと腰掛ける。
「リンドはさ」
「うん?」
「有樹くんを守りたいんだよね」
「同居人を守るのが猫の役目だからな」
それがどうした、とリンドの言葉に疑問が混じる。
「んー……なんというか、良いなって思って」
「そうか?」
「うん。霧緒も、そうやって大事な人を想って……そうだな、守る人になりたいなあ」
「守る人?」
問い返すリンドに「そう」と頷く。
「誰って決まった人が居る訳じゃないんだけど。守りたい。でも、それがうまくできなくって」
霧緒は小さく息をついて、言葉を続ける。
「私が今ここに居るのは、隕石の調査隊で護衛をしていたからなんだけど。その人達はね……守れなかったの」
少しだけ小さくなった声を、リンドは黙って聴いている。
「その隊員達だけじゃなくて。桜花さんも、水原さんも。私はちっとも守れてなかった」
ぎゅっと、ストールの前を合わせるように握り込む。
「研究所で『守れると証明して』なんて大きな事言ったけど、実際どうかって考えると、ね。――だから、有樹くんを守るって真直ぐなリンドがなんか良いなって」
「……よく分からんが。守るというのはそう簡単な事じゃない」
「うん」
「守る物が出来ると、それを気にかけてなければならない。時には決断が必要になる事もある。俺だって、その為にユウキに別れを告げた事もある」
「そうなの?」
意外そうな霧緒の声に、リンドはうむと頷いた。
「守る為に離れなくてはならない事もある。そういう事だ」
リンドはそれ以上語る気はないらしい。静かに目を伏せて言葉を切った。
「そっかあ……」
霧緒もそれだけ答えて黙る。
朝の冷えた空気が二人の頬を冷やしていく。
リンドはいつだって有樹の事を考えて行動している。霧緒の目にはそういう風に映っていた。渋谷駅でも。アイゼンオルカの中でも。変わってしまった未来でも。
そういえば、研究所から救出した後そんな話をしていたような気もする。
守る為に離れる決意、という物にどれだけの迷いと決断があったのか。考えてみると、自分はそのような事を考えた事は無く。それはあまりに手探りで何も見えなかった。
「そっかあ……リンドって、すごいね」
「猫だからな」
「猫だから……そうだ」
霧緒が何か思い出したようにリンドの方を向く。
「リンドって河野辺さんと別れてからどうやってイタリアまで来たの?」
「うん? そうだな。情報を集めながら街道沿いに南下して、列車に紛れたりしながら来たな」
思えば遠い道のりだった、とリンドが白い息を吐く。
「情報って、どうやって集めるの……?」
「うん? やりようはいくらでもあるだろう。人間の噂話を塀の上で聞いたり、猫の溜まり場に行って聞いたりも出来る」
「猫の溜まり場……」
そういうのもあるんだ、と呟く霧緒をちらりと見たリンドは彼女から目を逸らして頷いた。
「きっとキリが想像してる程ほのぼのしてない」
「えっ、してないの!?」
「……猫だからな。そんなもんだ」
そっかー、と彼女の目にちょっとだけ残念そうな色が混じる。
リンドは見なかった事にして「しかし」と話を切り替えた。
「あの祭りの中ですぐに二人と会えたのは僥倖だった」
「ああ、そうだよ。本当、良く見つけたね」
「ヴェネツィア[あのまち]に居る、もしくは待てば来るだろうというのは掴めていたからな――まさかミアとオウカにあれだけ振り回されるとは思わなかったが」
「あはは……そうだね」
ふと。二人の間に沈黙が降りた。
「まさか、オウカがあのような死に方をするとは思わなかった」
「うん。それは絶対に止めないとね」
うむ。とリンドは頷き、首を傾げるようにして霧緒を見上げた。
「とはいえ。オウカを殺した犯人とは一体何者なんだ」
「そこだよね……」
霧緒が困ったように目を閉じる。
「桜花さん達はあの状況から考えると……相手が異形を使っているのは確かだと思う」
「だが、バルトの他にそういう奴は居たか?」
「んー……」
眉間に皺を寄せ、むむむ、と考え込んでいた霧緒の頭に影がよぎった。
ずっと引っかかっていた影が、姿を見せたような気がした。
「あ」
「どうした?」
思わずあげた声に、リンドの尻尾が動く。
「もしかしたら……分かったかも!」
「よし、皆が起きたら早速話してもらおうか。何なら今すぐ起こしてくるぞ」
「待ってリンド、爪は。爪はしまってあげて……!」
爪をちらつかせて室内に飛び込んでいったリンドを止める声が、明るくなってきた空に響いた。