OPENING
ぷつん、と途切れた視界。
地下の研究所も倒れた影も、全てがその姿を消した。
暗い空間。広さも深さもわからない。
その中に浮かぶ、光を保つ紅い結晶。
これまで紅い結晶が輝く時は、否応なしに他の時代へ飛ばされていたが、今回はそのような事は起きない。これまでとは違うゆらゆらとした輝きが、周囲の闇を照らすだけだ。
「……えっと。これで俺達どうしろって?」
四人で結晶を囲むように立ち、結晶を見下ろした司が小さく息をつく。
「この結晶は起点を持たないと言っていたわね。でも……」
どうすればいいのかしら、とみあが結晶に手をかざしたその時。
「時間渡航をするには――」
聞き覚えのある少年の声が、空間に響いた。
暗い地下室で、紅月の呼吸が細く響いた。
この暗い部屋で息をしているのは紅月だけだった。他の誰の鼓動も、呼吸も感じない。そして紅月自身、もう何も見えないし、その息もじきに止まると分かっていた。
でも、やり残した事がひとつだけあった。
僅かに残っている結晶との繋がりを使って、あの四人に石の使い方を教える事。
一時的にでも持ち主だったからか、紅い石が彼らを飲み込んだ空間に僅かながら干渉する事ができた。
身体はもう動かない、声を伝えるだけで精一杯だ。
はあ、と息をついて、紅月は口を開く。
「時間渡航をするには、どうしても結晶が必要になる……それは、君達も知ってるはずだ」
「――そうね。何度か見たからそれは分かるわ」
みあが頷くと、紅月の頷くような吐息が聞こえた。
「みあ。京都でした話、覚えてるかい? 結晶の親……博士が“女王”と呼んでたそれが、結晶をばらまく理由」
「ええ。歴史改変を繰り返してこの世界を埋め尽くすことね」
「そう。だから連中には……その改変を無かった事にしない為に」
「“元の歴史に繋がる分岐点に行く事ができない”という性質が、必要になる」
継がれたみあの言葉に応えようとしたのか、紅月が息を整え、咳き込む音がした。
「一度記録された場所と時間。それ以前には戻れない。……その性質が、俺達の最大の悩みで、敵だった。――けど。今、目の前にあるそいつが、解決策」
浅島博士が生涯をかけた研究成果だ。と。響いた声は強くも穏やかだった。
その言葉にどれだけの物が詰まっているのかは紅月自身にも分からないような。そんな声を受け止めて、四人はじっと、目の前にある紅い結晶を見つめる。
「唯一の――“起点を知らない”時間渡航の結晶。つまり」
「女王の元に、辿り着ける可能性がある結晶ってことね」
紅月の「そう」と肯定する声が響く。
「……俺が拾った種を元に浅島博士――有樹とリンドが研究と試行錯誤を繰り返し、……司と末利が最適な苗床を選択し、霧緒が春日恭二に植え付けた。そうして完成した……、たったひとつの、希望だ」
紅月の声が途切れがちになる。が、呼吸を整える音がして、言葉は続く。
「それが言う事を聞くのは、そこから過去への移動……あと一度が限度だ」
「待って。結晶ならまだあたし達の手元に残ってるわ。この結晶の力を、他の結晶の位置情報をリセットするのには使えない?」
「使える。……けど、お前達の手持ちも含めて使い切れば、それで終わり、だ」
ごほ、と何かで咽せた音が重なる。
「あたし達の手元にある結晶は二つ。これを使って。最悪この結晶も使って。その結果がどうしようもない未来だったとしても……もう打つ手はない。その未来と心中しなきゃならないってことね」
みあの言葉に司が唸る。
「む。ってことはできて二往復……? それでケリをつけて俺達が元居た世界に戻れって話か」
「そういうことになるわね」
「介入しすぎても駄目だろうし、押さえるべき所はきっちり押さえとかないといけない、か……」
難しそうだな、と司は頭を掻く。
「オマエはノイマンなんだから、その辺の計算は得意なんじゃないか?」
「いやいやリンド。人間の脳は確かに未知数だし、その辺をうまく使えるのがノイマンだと言うがさ。さすがに俺はどんな風が吹いたらどこの桶屋が儲かるかなんて考えたくないし。百年の歴史を演算できる程できちゃいないよ?」
できるのは今取り得る最善策とそれに必要な条件を求め、実行するだけ。と、司は肩をすくめた。
「それはどっちかというとみあちゃんの方が得意そう、かな」
「ああ。そうだな。百年のデータを持っていて照合するならみあの方がずっと効率的だ」
霧緒の言葉に頷きつつも、しかし、と司はぼやく。
「妙な未来と心中……ねえ。それは遠慮したいなあ」
そんな溜息のような言葉に、紅月の肯定が重なった。
「ああ。俺達のような世界も。他の、捩じ曲がり、歪んだ世界も……お前達の知る起点に結晶が残ってしまえば全てが終わりだ」
特にみあ、と紅月が名を呼ぶ。
「そうなったら。世界だけじゃない。みあ。お前も……いや、俺達も終わりだ」
「結晶が残ったら、私達はおしまい……」
紅月の言葉を繰り返したみあは、眉をひそめて問い返す。
「それはどういうことかしら?」
「結晶に憑かれた人間は、俺達の代わりに結晶が居るようなものだ。俺達は結晶を受け入れる事ができたが……」
紅月の声に苦い何かが混じる。
みあは口元に手を当て、ふうん、と考える。
「あたしや貴方のように、先に起動しても結晶を持つことはできる。でも、結晶が憑いたら起動はできない。と」
そう言うみあの視線の先にあるのは、幼い手で明滅する紅い結晶。“書き記す者”が起動しても結晶を持つ事ができるのは、自分や紅月が実証している。結晶が時間渡航をしようとした場合は例外として、それ以外で身体の主導権を握られるような事は今の所ない。
だが、逆は。未覚醒の“書き記す者”が存在する者が結晶を持った場合は?
紅月の言葉からその可能性は語られなかった。もしかしたら、自分達の持つ記録を逆に利用される事だってあり得るのかもしれない。
「そういう事、だね。……事実、起動する“書き記す者”はこの百年で減る、一方……」
あいつらは同じ椅子に座らせてくれる気はないらしい、と紅月の溜息にも似た声が響く。
「ま、普通そういうもんでしょ。自分の椅子なんてそう簡単に譲らないわ」
そうだな、と紅月の返事に、みあは息をつく。
「このまま人類が全て結晶に憑かれたら、あたし達の座る椅子は無い。――それも“記録”としてはしょうがないことなんでしょうけど」
と、彼女は結晶に向き合った。
「それは面白くないから、せいぜい頑張るとするわ」
みあの言葉に、紅月は一人笑った。
彼女なら大丈夫だ。やってくれる。
そんな、安心感があった。
「そういや」
この声は司か。紅月は目を閉じて、耳を傾ける。
「俺ら、いつも結晶に使われてた訳だけど。これ、使えるの?」
ああ、そうだった。最後に、それだけを伝えなくてはならなかった。
「ああ、可能だ」
声が掠れているのが自分でも分かる。もう喋れる事も少ない。
「その時間や場所にまつわる強い意志を伝える事で。使う事ができる……人物を思い浮かべるの、が。有効ではないか、と――」
博士は言っていた。という最後は、自分でも聞き取れなかった。
声が出なかったか。それとも耳が聞こえなくなってきたか。
ああ、なんだか酷く寒い。
そんな事を思った時、「なるほどね」という司の呟きが聞こえた。
良かった。届いていた。
これで、自分にできる事はもうない。
この世界で死ねる事に、安堵しているのだろうか。
最期に何を、思ったのだろうか。
それを考えるより先に。
その命は、終わった。