CLIMAX - 10
みあは目を閉じて呼吸を整える短い間に、記録から言葉を拾い上げる。
体内で沸き立つウイルスが、いつも以上に活発になる。生成される薬物が体内を満たし、身体が淡い光に包まれる。
「現に流れる刻は瞬き」
彼女の周りを渦巻く風が、淡い光が、音を拾い上げて部屋中に広がる。
優しく。ゆっくりと蝕むように。
それは、時を紡ぐ為の歌。
「時 の 女 王 が 作 り し 怨 嗟 を 、 空 洞 な 刹 那 を」
紅月もまた、瞳を紅く輝かせて高らかに歌う。
以前出会った時のような掠れた声ではない。遠くまで響く、ノイズのない声。
それもまた、時を紡ぎたいが為の歌。
みあのまつげが揺れ、静かに開いたその瞳は薬物によって紅に染まっていた。
「――されど夢幻は永遠に」
声が、響く。部屋中に吹く風に。染み込む歌に。紅月の声が途切れる。
膝ががくりと崩れそうになるが、倒れはしない。
痛む頭を押さえるようにして、みあの歌声に耐える。
「……まだだ」
絞るような声がした。
「まだ、あんた達には聞かせてない」
なあリンド。と小さく呼ぶ声に、“リンド”も「無論だ」と頷いた。
「俺達はまだまだ先に進める」
「ああ、そうだな」
ぎらりと、紅月の目が一際紅く光る。
「あいつらの絶望を。意地でも持っていってもらうぞ――!」
そうして響かせようとしたその声は――無音だった。
「――!」
その原因を瞬時に理解した紅月が睨み付ける先に居るのは、霧緒だった。
片手をヘッドホンに添えて紅月を見据えるその眼に、紅月の奥歯が鳴った。
「その程度で、この歌が終わると思うな……!」
「ええ勿論。――この程度の足止めで終わってくれるなど、思っていません」
霧緒の口調は静かだが、みあはその声が僅かに震えているのを感じた。
時間を止め、重力で音を押し潰す。バロールの奥の手とも言える能力だが、慣れない使い方。そして、彼女はもう立っているもやっとだ。
そんな限界に近い彼女の、強がりにも近い返答は、紅月の気を引く為のもの。
霧緒の後ろでランチャーを肩に担いだ司の指が、そっと引き金を引いた。
霧緒を掠めて飛んでいく弾は、そのまま紅月も通り越し――更にその後ろに居る猫へと迫る。
「――は、その程度の物!」
と、弾は鋭利な刃で切り裂かれる。
「その程度……ねえ」
にやりと笑う司。立て続けに装填し、引かれる引き金。
弾は“リンド”が刃で切り裂き、飛んで避けては虚しく地面で爆発する。
「さて、そろそろかな」
そう呟いて放たれた一発。
“リンド”はそれもまたひらりと躱した――が、その着地点へ降り注ぐ銃弾。
それは、“リンド”自身が斬り裂いた銃弾の欠片達。
司が狙ったのは、その欠片達が降り注ぐ一点。これまでの銃弾は全てその為の誘導。
“リンド”がそれに気付いた時はもう遅く。
着弾した銃弾と、欠片と化した火薬の誘爆にくるくると吹き飛ばされた。
「――この」
猫特有の身軽さで壁を利用して着地したものの、その身体は傷だらけだった。
目はぎらつき、呼吸も荒い。
「流石猫。身軽だな」
「猫だと思って甘く見ると――痛い目を見るぞ」
司の軽口に、爪が床を削る音が混じる。
飛んできた水の刃を避けながら、司も銃弾を撃ち込む。
「そうだな。引っかかれないように気をつけないとな!」
紅月の身体からも、紅い光が零れる。
それは水の刃に反射し、ちらちらと光っては周囲の空気に溶け込んでいく。
歌で弾かれた水滴で再構成した刃を、みあの歌声に乗せるように走らせる。司の銃弾の間を縫うように、もう一人の自分へと、刃を向ける。
「そのような鈍で――」
“リンド”は身軽に刃と銃弾の雨を避けていく。
先程のように、司の計算に乗る事はしないが、その分傷が増えていく。血が点々と散る。
リンドの刃を相殺し、司の銃弾を打ち落とす。
部屋中の温度がこれまでにない速度で下がっていき。生み出される刃は、僅かな振動で氷と化すまでになった。
小さな破片と、これまで以上の鋭利さと速度をもった攻撃に、リンドの刃が打ち砕かれる。
「くっ……」
リンドは襲ってくる氷を避けるが、地面で弾けた破片がその身体を貫く。
部屋中を満たすほどの冷気がリンドの操る空気と混じり合い、氷の粒を撒き散らす。
司が打ち砕き、霧緒が弾いた氷も散弾と化し、細かな傷を負わせていく。
リンドも、攻撃の手は緩めない。
丸くなりそうな身体を震わせ、自分の周囲の空気を少しずつ有利な空気へと塗り替えていく。吐く息が白くなりそうだが、僅かながらに氷の数が減ってくる。
そうしている内に、水の刃が“リンド”の足元を掬う。
「っ!」
爪が折れ、血が飛ぶが、それは“リンド”の攻撃に何の支障もきたさない。
「この程度で!」
吼える“リンド”の一声で、周囲の水が一気に凍る。
「――これでも、まだ言うか?」
挑発するかのような“リンド”の声に。
「そんな乱れた空気を撒き散らして言う台詞では無いな」
リンドは軽く飛び上がり、とっ、と一つの氷に触れる。
ひとつ、またひとつと氷の刃を避け、足場として。
身体を。知覚を。加速させて距離を一気に詰める。。
今や氷の刃はリンドにとってただの足場に過ぎない。リンドの脚が触れ、離れた氷は地に落ちて砕け散る。領域に入り込んだ氷の刃は弧を描き、“リンド”へと舞い戻る。
それはリンドを狙って飛ばされる氷とぶつかり合い、澄んだ音と共に砕け落ちる。
自分の領域が押されているのを感じた“リンド”が、じり、と下がる。だが、リンドから決して目を離す事はしない。舞い戻り、砕ける刃を避け、氷を足場に距離を詰めてくる自分へ狙いを定め、攻撃を繰り出す。
次の足場。その次は――。
だが、その集中が“リンド”に死角を生み出す。
「――!」
ざくり、と“リンド”の身体に銃弾で打ち砕かれた氷の欠片が突き刺さる。
ぐらりとバランスが崩れたその隙を逃しはしない。距離を詰めたリンドは残った領域の主導権を奪い取り、“リンド”へ水と氷の刃を降らせる。
切り裂かれ、空中に舞いあがる小さな身体は受け身をとる事すらままならず、濡れた水面を滑って壁へと激突する。
「くそ……糞、糞、糞!」
立ち上がる事も出来ないまま、“リンド”は目の前に着地した青い目へと叫ぶ。
「どうして……オマエばかりが……!」
「オマエの境遇は解ってる心算だ。もし俺がオマエでもそうしたかもしれない。――だが、どうしても譲れない事があるのさ」
オマエにも解るだろう? とリンドの目が問いかける。
「ああ……解る。解るさ」
だから、と“リンド”の目がぎらりと光る。
「この絶望位は――持っていけ!」
“リンド”の姿がぶれたように見えた瞬間、リンドの目の前に“リンド”が迫る。
赤いものが混じる液体をありったけの力で刃の形にし、体当たりをするようにリンドへと襲いかかる。
リンドの首に深々と“リンド”の爪が刺さり、身体を刃が斬り裂く。
「……オマエ、しぶといな」
「……オマエもな」
そのか細い声が、最期の言葉だった。
そうか、同じか。と自分の声も形になったかどうかはわからない。
この赤い目の猫は、どうしようもなく。本当にどうしようもなく、俺だったんだな。ともう動かぬ猫にリンドは苦笑し――意識が暗転した。