SCENE5 - 2
廊下の更に奥。
一階、二階では壁で埋められていたそこに、無機質な鉄扉とひとつのボタンがあった。
とりあえず押してみると、どこからかごうんと重い音がした。
それは次第に近付き、音が止むと同時にその扉が開く。
そこにあったのは、小さな倉庫と言っても良さそうな広さを持った空間だった。
「エレベーター……だな。よし乗るか」
「ツカサ……オマエはどうしてそう即決なんだ」
肩の上で呆れたように溜息をついたリンドに、司は乗り込みながら「だって」と返す。
「この研究所でこんな怪しいエレベーターあったら乗るしかないじゃん」
そう言いながら外に居るみあと霧緒へ手招きをする。
みあがそれに続き、霧緒も最後に乗り込んだ。
全員が乗ったのを確認した司はそのまま逆三角形が描かれたボタンを押した。
もうリンドも何も言わない。扉はそのまま閉じ、エレベーターは軽い浮遊感と共に動き出した。
重い音を立てて降りていくエレベーターの中で、霧緒は壁にもたれかかって三人を見ていた。
みあも同じように壁に背を預けて何かを考えている。
司はどこかで手に入れたらしいランチャーや銃の手入れをしているが、その目はどこかぼんやりとしているように見えた。
リンドはそんな司の隣で作業をじっと見ている。
このエレベーターが止まったら。きっと何かが待っている。
それはきっと、全員が感じている事なのだろう。
少しずつ重くなっていく緊張感に、霧緒は傘の柄と刀を持つ手に力を込めた。
と。
「――みんな、覚悟は出来てる?」
みあの声が、水面に小石を投げ込んだ波紋のように広がった。
「覚悟? 何の?」
答えたのは司。ただ、みあへ顔を向ける事もなく、銃を弄る手を止めない。
霧緒もリンドも、その言葉に視線だけを向けて、みあの言葉を待つ。
「何があっても、何が来ても。立ち塞がっても。蹴散らして未来に進む覚悟よ」
みあは静かに、それでも身体のどこかに響くような声で言う。
「あたし達が、この世界の全員を殺すんだと思いなさい。だから、覚悟なさいと言ってるのよ」
「ああ……それは出来てるけど」
「覚悟、か……偉くなったもんだな、俺らも」
首を振るリンドに「いや」と司の声が挟まる。
「ちっとも偉くなんてなってないだろ」
かちゃかちゃと銃の手入れをしながら、司は言う。
「俺も、お前も、霧ちゃんも、みあも。全員翻弄され続けているだけだ」
その言葉に、みあが顔を上げてぱちりと瞬きをするが、司は銃から目を離さずに言葉を続ける。
「勿論、この世界も、世界中の人も。訳の分からん紅いモノに振り回されてるんだよ。俺達は世界を玩具にしている訳じゃない。寧ろ逆だ。世界に玩具にされてるようなもんだ」
はあ、と彼は溜息をつく。
「……そう、だな」
リンドが呟くその声には、悔しさのようなものが滲んでいた。
「だからこそ、みんなあの紅いモノをどうにかしたいんだろ。俺らも、あいつらも、あんなモノに振り回されるのはまっぴらごめんだ」
「同感ね……でも驚いた。司もちゃんとそういう事考えてたのね」
くす、と口元を緩ませたみあに司は「まあね」と答えた。
「適当ばっかじゃないのよ俺は。――だからここに“寄越された”んだろうよ」
上司の真意は知らんけど、と司の言葉は平坦に続く。
「ちなみに俺が今現在遂行中の命令は『猫の観察』――もとい『奇跡を確かめる』だってさ。いつもながら理不尽だよなあ……。って」
あ。と司は顔を上げて視線だけを霧緒に向けて苦笑いした。
「しまった。ここにUGNエージェントが居るんだった」
「え」
頼むから邪魔はしないでくれよ、と少しだけ冗談めかした言葉で、霧緒に答える隙を与える事無く銃の手入れへと戻った。
少しだけ開いた口を噤んだ霧緒は、なんだかもやっとした気持ちを吐き出す訳にもいかず、心の中で溜息をつくにとどめた。
司の手の動きをじっと視線で追っていたリンドが「もし」と言葉を漏らした。
「この世界を元に戻したら、今この世界に居る奴らは、どうなるんだろうな……」
「そりゃあ、消えるだろうな」
あっさり答えたのは司だった。
「分岐を無かった事にすれば、その先の道もない。違うか?」
「そうだが――ただ」
思うんだ。と、リンドが難しい顔で呟いた。
「ツカサ。オマエは俺達も振り回されてるだけだと言ったが……。この世界を消すという事はだ。人間だけでも六十億、俺ら猫や動物も含めれば何千億という命を奪う事に他ならない。それが正当化されるのかと。……ミアやオマエのように、割り切れればいいんだろうが」
もう一人の俺の事を思うと、というリンドの声に滲む感情に「それなら」とみあは変わらぬ口調で問い返す。
「貴方や貴方の大事な有樹が、その為に死んでしまっても構わないの?」
「……ミアは、俺ら数人の命がこの世界何千億の命と釣り合いが取れるというのか?」
「いや、それは釣り合いの話じゃないな。そもそも天秤に乗っける物が間違ってる」
みあが答えるより先に、司が口を開いた。
「釣り合いだというなら答えはイコールだ。既に俺達が元居た世界の人間、生き物、全て消滅してる」
だが、リンドはどこか納得がいかないような顔をしていた。
「納得できないなら別の言い方をしましょうか」
みあが静かに言う。
「この世界も、あたし達が居たあの世界の何千億の命と引き換えなのよ」
そうだな、と霧緒は黙ったままその言葉に同意する。
自分達が居たあの世界は、今現在存在しない。
自分達が居なくなった後があったとしても、それを知る事が出来ないのは、存在しないのと同じ事だ。
代わりに自分達が存在し、認識しているのが、歴史が変わってしまったこの世界だ。
自分達の元居た世界が無くなってこの世界が生まれたのなら、それはきっと等価だろう。そして、元に戻す為に払うべき犠牲とその結果も、きっと等価だ。
リンドはそれでも、納得し難いと首を横に振った。
「消極的に為された事と、積極的に為す事を、結果が同一であっても同列にはし難い」
「そりゃ俺達の意志が、だろ? あの紅いモノや世界にとって、そんなの知ったこっちゃないし。払われた対価は変わらない」
「ああ、そうだな。しかし。しかしだ。この状況を覆して元の世界を取り戻すという事は……俺達も、アイツらと同列になってしまう。違うか?」
リンドの背中が少しだけ丸くなる。尻尾もいつの間にか足元でくるりと丸まっている。
みあや司が言う覚悟とは、きっとこの事なのだ。
この世界を壊し、自分達の世界を取り戻す。
それは、自分達がこれまでやられてきた事をこの世界に対してそっくりやり返すという事。
――渋谷駅で敵対したあの存在と、同列になるという事だ。
自分にその覚悟はあるのかと、霧緒は問いかける。
ただ、元の世界に戻りたい。駅に残してきた隊員達を助けなくてはならない。それだけを考えてこの世界を駆け回った。
だが、それが生み出す結果と責任は。自分達が負うにはとてもとても、重い物だ。
そしてそれは、とても怖い。
上手くいっても、失敗しても。この世界は壊れてしまうと分かっていても。
勿論、と、まだ上手く言えない自分がもどかしい。
傘と刀を抱える腕に力を込めて、霧緒は口を結ぶ。
奥歯がうまく噛み合ないのをぐっと押さえて、三人の話に耳を傾けた。