SCENE4 - 6
そのまま島を出て、末利の研究所へと向かった紅月は、末利に有樹の研究目的の変更について話をした。彼女は書類に向かったまま「それはいいわね」と顔も見ずに答えた。
その声から感じるのは、複雑な感情。
不満とも、苛立ちとも。諦めともとれない平坦なその声に、紅月は溜息をついた。
「浅島の言う通り、この世界はもう畑になるしかないのか……?」
末利は小さく「そうね」と言う。
いつの間にか、書類に走らせていたペンは止まっていた。
「――ねえ」
「うん?」
「私はイフって好きじゃないんだけど……もし。もしもよ。この世界がこのまま結晶で埋め尽くされたらどうなると思う?」
「そうだな。まず“書き記す者”は存在できなくなる。何度か戦って感じたが、アレは俺達とは相容れない存在だ」
「そうね。それから?」
「……異形と結晶に埋め尽くされて、破滅するだろうな」
ふむ、と彼女は小さく答えて、「それじゃあ」と問いを重ねる。
「もし、この現象を解決できるとしたら?」
「――それは」
もう無理だ。と紅月は答えようとした。彼自身には、それしか答えがなかった。
だが。“記録”にその手がかりがあるとすれば。
「“あいつら”がこの世界に現れた時、だ」
有樹の話と“記録”から総合するまでもなく、彼らは紅い結晶をその身に持っている。だから、ヴェネツィアで紅い光と共に姿を消したのだ。そしてそれは、オリジナルに限りなく近い。
故に、強大な力を秘めている可能性が高い。
それこそ、世界を変え返すに値する程の力を。
「そう。この世界に在る結晶達は弱い。活性化する手段も探してはいるけど……まだまだね」
末利はふう、と溜息をついてペンでこつこつとノートを叩いた。
「貴方はきっと許せないでしょうね。“記録”を大切にする人だもの。それを無かった事にする選択肢だもの」
そう言う末利の声も複雑だ。
「そうだな」
でも、と紅月は重い言葉を吐き出す。
「あいつらは必ず現れる」
末利の返事は「そう」という一言だった。
それからの数十年。
紅月は異形を倒しながら記録を続け、有樹や末利と研究を進めていった。
たとえこの世界が、本来の歴史から外れた偽物の世界と。
ただ、利用されている実験畑だと。
いずれ、この世界全てを否定される日がくると知りながら。
だが、研究は遅々として進まず。
ただ、時間だけが過ぎていった。
記録が重なるにつれて、蓄積していくこの感情は何だろう。
苛立ちか。悲しみか。絶望か。もう自分の感情も交ざりきってよく分からないけれども。
この世界だからこそ起こった出来事、あった生き様、死に様があったはずだ。
この世界で生きている、生きてきた物達の生は紛れも無く本物だと。
それだけを支えに、紅月は日々を渡り歩いた。
そして。
古代遺跡から飛び立った飛行機が何者かによって撃墜され、世界中に未知のウイルスがばらまかれた。
レネゲイドウイルスと名付けられたそれは、これまで説明のつかなかった異能力や現象を説明付けていき、能力を発症した者はオーヴァードと呼ばれるようになった。
UGNが設立され。テロ組織であるFHの存在が明らかになったが、混乱を避けるべく多くの人々にそれらが知らされる事はなかった。
有樹も、末利も、紅月も。
ひっそりと変貌したその世界の動きをじっと見守っていた。
その時が刻一刻と近付いてくる足音を聞きながら。
末利は研究者としてFHのメンバーに迎え入れられた。
博士と呼ばれるようになった有樹は島で紅い石の研究を続けていたが、末利と組む事でFHの研究者として名を連ねるようになった。
両手でも足りなかった残り年数が、片手で足りる程になった。
あんなに長かった百年が、終わろうとしていた。
UGNでクーデターが起こり、FHが世界の表舞台に立った時。博士は紅月を呼び出した。
「位置情報をリセットできる結晶が出来たよ」
だが、と博士は少しだけ顔を曇らせる。
元より笑う事が減っていた彼だが、このように悩む表情を見せる事も珍しかった。
「歴史の分岐条件が分からない」
「……桜花の生還と、浅島が乗っていた船に居た奴の対応だけじゃないのか?」
紅月の問いに、彼はふむとキーボードを叩いた。
「それも必要な条件のひとつだが。もう少し……何かが必要だ」
例えば。と博士はキーボードを叩く。
「異邦人と呼ばれた人達が居なかったら。この島はカオスガーデンなんて呼ばれていない。そうすると結晶の研究が進まないのは勿論、“リンド”だって生まれない。ようなね。……他にも、いくつかポイントがある可能性が高いんだよ」
かた、とキーボードを叩く音がして、彼の声が続く。
「結晶の研究。異形への対応。この間のクーデターだって――」
ふと、彼は言葉を止めて、紅月を真直ぐ見た。
「失敗してるはずなんだ」
「失敗してるはず、か」
繰り返した紅月に彼はこくりと頷いた。
「私はオーヴァードもUGNもFHも知らなかった」
「だから、オーヴァードの存在は秘匿されたまま――つまり、UGNの勝利に終わってる、と」
そう、と頷いて博士はディスプレイに書き込まれた文字列を眺める。
「……私が居た世界の話をするのは初めてか」
「まあ、ほのめかす事はあったけど……断定するのは初めてだな」
「気をつけていたからな」
「それでも『はじめから知ってるように研究してる』とか『未来が見えてる』って散々言われてたな」
老人は軽く笑って、断言は避けてたんだけどなあ、と呟く。
「兎も角、だよ。どの条件がどの要素に関連するかもわからんのさ」
口調は変わらなかったが、声色はどこか苦いもので。その苦さに紅月は眉間に皺を寄せる。
それが意味する所は。
この世界に住まう者では、決して歴史を修正する事は出来ないという事。
畑と化したこの世界の滅亡を、大人しく受け入れなければいけないという事。
「紅月」
博士がゆったりと呼ぶ。
「私はもう長くない。ここから先の未来を知らなくても分かる位、この身体も随分老いた」
十分すぎる程にね、と小さく付け足して、小さな試験管を机の引き出しから取り出した。
試験管の底には、小さな結晶がひとつだけ転がっている。
「これを、君に返すよ」
そうやって差し出された試験管を受け取った紅月に、博士は「残念だけど」と言葉を付け足す。
「それは、君が以前私にくれた物だ」
「……それなら、過去の情報が残ってるってことか」
そう、と博士は頷く。
「それを元に研究を進めてね。時間や位置の情報をリセットする石を作り出した。それは良かったんだが――」
彼はパソコンに研究所の見取り図を表示してその一点を示すと、そこの監視カメラの映像を呼び出す。
画面に映されていたのは巨大な紅いドラゴンだった。所々が結晶のように透き通り、紅く輝いている。
「これが唯一育った実験体だよ。力の大きな結晶は、どれも強い刺激を受けるとこの形態に変異しようとする……きっとこれが本来の姿なのだろう。それを踏まえて、ドラゴンに因子を埋め込んでもみたが」
そっちは全て失敗だった、と博士は言う。
「後は、これを無力化して結晶を手に入れる事が出来れば」
「この試験管の物が使えるようになるって訳か」
そう、と博士は頷いた。
「だが、もうあれは誰の手にも負えなくてね。紅月も一人で挑むのはやめた方が良い。それから。その石ももう少し育てる必要がある。だが、ここに居る動物ではある程度まで育てられそうなのが見つからなかった」
「ああ。それなら末利の方に相談してみよう」
きっと良い実験体を知っているはずだ。と紅月は答えた。
「それじゃあ、これはもらっていく」
「ああ。私はここで研究を続けるが――後は頼んだよ」
それが、紅月と博士の最後のやり取りとなった。