SCENE4 - 5
そうして、“書き記す者”として、紅月は世界を修正する為に奔走した。
みあはその“記録”を眺め続ける。
情報の混乱はない。先日のような混線ではなく、情報を俯瞰しているからだろう。
カタカタと上映されるように流れていく映画フィルムのような“記録”を、みあは拾い上げ、眺め続ける。
十年。
まず紅月が連絡を取ったのは、末利だった。
当時はまだ小さな診療所兼研究所を構えていた彼女の元を訪れ、話をした。
“書き記す者”を継いだ事。地球上に現れた紅い石の奇病の事。断片的に残る、未来の――そうとしか思えない、自分が持っているはずのない“記録”の事。
この世界が、歴史に手を加えられ、本来の道から外れてしまっている事。
「そう……」
末利が答えたのはそれだけ。だが、その表情は複雑そうだった。
「病気の噂は聞いてるわ。とはいえ、日本でその症例は殆ど見られない。まだ珍しいしね」
ぶつぶつと考え込むようにして、カルテにさらさらと書き込んでいく。
「そうだな。俺も日本ではまだ片手で足りる程度だよ」
「そう。に、しても。その話については分からない事が多すぎるわね。研究も必要だし……少し時間を頂戴」
かつ、とペンの動きを止めて、末利は淡く微笑んだ。
それから。焼け野原から立ち上がろうとしている日本で、欧州から放浪してきた異邦人と出会った。
その中でも年若い青年だった浅島有樹と、紅い石の奇病や白い異形についての話を重ねた。彼は若い割に聡明で、研究者にとても向いていた。
だが、異邦人達は、この国に居場所は無いという。
戦後という混乱の中ならば居場所が作れるのではないかと提案もしたが、彼らは首を振るばかりだった。
どうしてか、と問うた時、有樹は少しだけ寂しそうに笑って答えた。
「あのね。僕達は確かにもう一度故郷の土を踏みたかったし、それが叶ってとても嬉しかった。でも、僕らはこれ以上、世界に関わってはいけないと思うんだ。――漫画とか小説でよくある話だよ。未来人は過去で未来に関する情報を残しちゃいけない。そうすると歴史が変わってしまう、ってやつ」
「だが、もうこの世界は」
「うん。でも、そうするとね」
反論しかけた紅月の声に、穏やかな有樹の言葉が続いた。
「きっと僕らは君と仲良く出来なくなってしまうと思うんだ」
それはその通りだった。歴史を侵す者とは相容れない。
でも、と有樹は言葉を続ける。
「僕達じゃなきゃ知らない事も、出来ない事もあるはず」
だから、と彼らは小さな無人島を探し出し、そこを安住の地とする事にした。
二十年。
野生の動物と植物しかなかった小さな島で、有樹をはじめとした異邦人達は、紅月が手に入れた結晶と白い異形の情報を元に研究を始めた。だが、不明点は数多く、何が課題なのかすらも手探りだった。その間にも、紅い石の奇病は世界に蔓延していく。
紅月は暴走した個体を見つけては倒し、末利や有樹へと報告していく日々を過ごしていた。強力な覚醒個体は、当初に想定された数に満たなかったが、それは逆に、静かに静かに世界を侵蝕していっているという可能性を濃くしていくばかりだった。
三十年。
結晶は相変わらず、感染範囲を広げていた。
今や欧州だけではなく世界全土で確認されつつある。とは言うものの、かつてイタリアに現れたような大きな力を持った個体は居らず、紅月が見つける物もそれほど力を持った個体とは言えなかった。
紅月と有樹は、紅い石の奇病についてひとつの仮説を立てた。
紅い石の奇病による異形化は、ただの病状進行における失敗故の暴走であり、本来の目的は別にある。
それは、紅い結晶を生み出す事。
覚醒したあの日に紅月が手に入れた紅い石がその仮定を支える材料のひとつだった。
「それならば」
有樹はこれまで書き溜めたレポートの束を示しながら、黒板にかつかつと仮説を書き込んでいく。
「その紅い石には、何かの目的があるはずだ。僕が体験した事がそれならば――」
「歴史の改変」
言葉を継いだ紅月に、有樹はこくりと頷いた。
「だろうね。だけど、僕が居た世界にそんな病気はなかったはず」
あの頃の僕は何も知らなかったけどね、と自嘲気味に笑って有樹は続ける。
「僕が見たのは渋谷駅と……紅い光だけだったけど、三十年位前のヴェネツィア。そこから世界中に広がっているのは間違いない。例えるならここは今、巨大な結晶畑。今はまだ種を蒔いて試作をしているような時期だと考えていいと思う」
失敗作も多いようだしね、と彼は手にした研究結果に苦い顔をする。
「でも、いつかは実がなり、種を飛ばす日が来る」
それはいつか。
「――あと、数十年後」
紅月がぽつりと呟いた言葉に、有樹は首を傾げた。
「正確な時期は分からないけど、浅島が居た時代。君の飼ってた猫……ええと」
「リンド?」
「そう。リンド。他に三人。きっと彼らが現れた時だ」
有樹は紅月の言葉に「その根拠は?」と問いかけながら黒板にチョークで書き込んでいく。
「俺の“記録”、だ」
紅月の脳裏に断片だけ存在する、未来の記録。
「成程」
有樹は頷いて、黒板の端に赤のチョークで自分が渋谷駅に居た年号を書き足した。
五十年。
紅い石の奇病は世界各地で見られるようになったが、有効な手段は見つけられないままでいた。
有樹も末利も、奇病を消し去る為の対策を立てようと奔走していたが、紅月からの報告を受けるにつれて、彼らの表情は険しくなっていく。
三人の結論は一致していた。
これ以上、この奇病の存在を消し去る事はできない。
この世界は、手遅れだ。
だが、世界を結晶畑にされて黙っていられるか、という問いには「否」しかなかった。
「だから」
もう老年にさしかかった有樹は静かに口を開いた。
「私達も目的を変えるべき頃なのかもしれない」
「目的?」
問いかける紅月に、有樹は頷く。
「この世界はもう手遅れだ。ならば、その根底から修正し直すしかない」
「歴史を、変え返すってことか?」
「そう。あの結晶は過去に戻っては歴史の改変を繰り返す。時間を跳躍するその能力を、逆に利用してみるというのはどうだろう」
有樹の意見に、紅月は口を結んだ。
「結晶は一度記録した場所には決して行かない。だが、それを上手くリセットする事が出来れば。それを、いつかやってくるリンド達に渡せたならば――」
まるで初めて会った頃のような顔で、有樹はすっかり古くなった黒板にかつかつと書き込む。
「この世界に――畑になるに至った原因を、その時点で全て正してやれば、元通りになる可能性はある」
そう話す有樹に、紅月はどう答えればいいのか分からなかった。
「……そう、だな」
どんな顔をしているかは、紅月自身が一番知っていた。
有樹の言ったその言葉の意味を、理解したから。
――この世界を、壊す。
それは、この世界にとって。自分にとって。あんまりな選択だった。