SCENE4 - 4
「八重子、くん――!」
床へと落ちていく八重子の身体を受け止めるかどうか、彰彦は一瞬迷ったが、異形の腕がこちらに伸びてくるのを察知して止めた。体勢的に死体を盾にする形になってしまう事に抵抗を感じたからだ。折れた刀の根元でその腕をなんとか受け止めるが、それはあっけなく折れ飛び、己の胴に突き刺さる。
「――ぐ」
声の代わりに血が喉の奥から込み上げ、口の中を満たす。
彰彦の脳裏に、幾度目かの「死」がよぎる。
もう、己の死が避けられないのは分かっていた。
異形達が放つこの空気の中では、ごく一部の特別な者以外は無力のはずだと、八重子は言っていた。
「私の“記録”ではそのはずなのに――貴方は不思議な方ね。何の力も持たないはずなのに。素質があるのかしら」
彼女がそう言っていたのを思い出す。
だが、思い出に浸る暇などない。今この時にも、自分の命は削られているのだ。
何が。何がいけなかったのだろう。
彰彦は問いかける。
何が間違いだったのだろう。
死を前にした今、後悔と疑問ばかりが溢れてくる。
奇病に興味を持った事か。
その患者を見つけ、病について調べようと訴えた事か。
それ故に、この邸を異形の巣窟へとしてしまった事か。
それともそれとも――
「桜花……君を、行かせてしまった、事……だろうか」
伴侶と誓った少女。葛城桜花は傍に居ない。何故。何故約束した三年を超えて帰らないのだ。
答えはもう知っているはずなのに。認めたくはなかった。八重子から話を聞く事で、桜花の死を受け止める事を先延ばしにし続けていた。
原因は己にあるという可能性から、目を背けていたからだろうか。
嗚呼。あの時。何故自分は遠き国の協定が怪しいなどと口走ってしまったのか。
少女の正義感が強い事は、とうに知っていたはずなのに。
真に受けた彼女が自らその役を買って出る事も、分かったはずなのに。
何故頼むと言ってしまったのだ。
己の言葉は、いつも何かが強すぎると。知っていたはずだったのに――。
「桜花……君は、私の力ある声が良いと、いつも言っていたな」
それ故に、遠い異国で命を散らしてしまった少女へ、呟く。
彼女のコロコロ変わる表情はよぎれども、最期の姿だけはどうしても見えない。
胸から込み上げる血液が、口から零れる。
「八重子くん。君はいつか言ったな。……私の声には、力の片鱗を感じると」
いつだったか、彼女は自分が“書き記す者”という存在だと名乗った。力ある者の傍らに在り、その存在を記録するもの。そして、彰彦自身にも力の片鱗があるのだと言った。
ただ、その力が何かは分からない、と八重子は言った。
力とは、何だろう。
「――」
八重子の言う力という物が、桜花が持っていた物と同じなら。
目覚めさせるきっかけに心当たりがあった。
いつか、桜花が話し聞かせてくれたその方法。葛城の家に伝わる、力を得る手段のひとつ。
「八重子くん。君は、力ある者の身体を渡り歩いてきたと言っていたね……」
霞んだ目で、八重子が居た方を見遣るが、もう、動かない影を捉える事しか出来ない。
指先にはもう、感覚がない。
呼吸も上手くいかない。耳が何とか捉える己の声すらも形を為していないように感じる。
考える事も、そろそろ辛い。意識が、暗く落ちていく。
力の入らなくなった手から、折れて短くなった刀が、とさり、と音を立てて畳に落ちた。
「最期に酷い賭けだと言うかもしれないが――八重子くん。もし私の身体が役に立つのなら――」
酷く重い腕を持ち上げ、胸に刺さっていた刃を抜く。
喉を詰まらせていた血液が、胸から溢れて服を赤く染めていく。
同時に、体温も急速に奪われていくのが分かった。
「嗚呼……桜、花」
会えるのはもう少し先になりそうだが許してくれるか。
そんな言葉も形にならず、冷たく埋もれていく。
もう、彼女の顔も思い出せない。幻影すらも見えない。
体中の力が抜け。膝をつき、倒れた事すらもう分からない。
そして。
紅月彰彦は、気を失うようにぷっつりとその命を止めた。
みあは、それを黙って見下ろし続ける。
部屋に溢れる白い異形。
倒れ、こと切れた二人の身体。
変化は、すぐに現れた。
「――♪」
凛とした音。
それが池に小石を投げた波紋のように広がると、邸内に溢れかえる異形達の動きが、次々と止まった。
彼らは動かない身体に疑問を持たない。疑問を持ち、その原因を求めるだけの知能もない。
人ならば、首を傾げたかもしれない。
耳を、全身を。そして精神を震わせるこの“振動”は一体何なのかと。
その答えを知る間もなく、異形達はぼろぼろと崩れ落ちていく。ある者は砂のように。ある者は風に攫われ。ある者はきらりと紅い輝きをちらつかせて。
そして。
まるで。最初から誰も居なかったかの如く。
たったひとつの音で。邸は静かになった。
部屋の中。傷だらけの軍服を身に纏った影が立っていた。
「――紅、月」
みあの口から、無意識に名前が零れた。
その髪は白く。瞳は黒い。
服装こそ違えど。それは、紅月と名乗ったあの少年だった。
「そう。……貴方はこうして“起動した”のね」
歌を止めた“書き記す者”は静かに息をつく。
身体の傷は全て塞がった。生命機能を守る為、最優先で組織を作り替えられた。
「――驚いた。こんな事は初めてだ」
少年は、自分の身体を確かめるように眺めて、そう呟いた。
身近な人物が次の“書き記す者”となる資質を持っていた事が、ではない。これまでにも、僅かではあるが自ら身体を差し出した人物も居た。
けれども、見つめ続けるだけの彼らに、面白がりながら観察していた彼らに、後の希望を託した者など居なかったのだ。
かつて「紅月彰彦」と名乗っていた少年は。「水無月八重子」から“書き記す者”を引き継いだ少年は。派手に己の血で濡れた服と、床に横たわる先代[やえこ]の身体を茫洋と見つめる。
彼には、これまでの“記録”も引き継がれていた。
八重子が決して口にしなかった少女の最期も、今ならば分かる。
彰彦が裡に秘めていた苦しみも。“書き記す者”としての超えてはならない一線を踏み越えられた憤りも。
過去があるからこその今である。
歴史は決して穢してはならず。替えが効いてはならない。
しかもこれが、この事態が。“書き記す者”が利用された故に招いた物ならば、その落とし前は付けなくてはならない。
世界は。歴史は。正しくあるべきだ。
少年は、奥の部屋へと向かう。
そこには布団が敷かれていた。そこに在るべき人は居ない。
ただ代わりのように。小さな小さな紅い結晶がひとつだけ、転がっていた。
彼はそれを拾い上げ、掲げる。
「――紅月。この名を標として、誓おう」
白髪の少年は、小さな煌めきをその手に握りしめて、胸元にあてる。
「この俺の手で、誤りは修正する」