SCENE3 - 5
霧緒が部屋に入ると、くらりと世界が回った。
目眩かな、とドアノブを握ったまま目を閉じ、その感覚が去るのを大人しく待つ。
そうして足下の感覚が戻ってきた頃、顔を上げたそこは――見覚えのある部屋だった。
「え……あれ? 私、ドア……」
開けたよね、と思わず左右を見渡す。
手にしたままのドアノブは木製に。その向こうは無機質な廊下ではなくて、自分の部屋。
しかも、ここは以前住んでいた実家だと気付くのに、少しだけ時間がかかった。
そっと自分の部屋を覗いてみると、そこには懐かしくも良く知った空間があった。
カーテンから外をちょっと覗いて、カレンダーと机上の時計を確認する。
外はもう真っ暗で、重い雲が空を覆っていた。時刻は二十三時を過ぎようとしている。
それなのに、家の中に人の気配はない。
「……?」
首を傾げたその時、部屋にあった姿見が目に入った。
ラフな部屋着、癖のある黒い髪。机の上のミュージックプレイヤーから端子を抜いた、シルバーのヘッドホン。
その姿に、違和感を覚えた瞬間。
――そうだ。今日は家に誰も居ないんだ。
ふと、そんな言葉がよぎり。霧緒は、それをすんなりと受け止めた。
「そっか……お父さんとお母さんは、明後日まで泊まりで出張……姉さんは……水原さんとデート、だっけ」
だから私は明日の予習をしていて――。と、状況を思い出した所で、かちゃん、と小さな音が耳に届いた。
それは玄関の鍵が開く音。
ああ、姉さんが帰ってきたんだ、と姉を出迎える為に階段を下りて玄関へと向かう。
耳に付けていたヘッドホンを外して、首にかけながら廊下へと出る。
「おかえり。遅かったね。お母さん居たらきっとすごく怒ってたよ。でも――」
楽しかった? という言葉は、喉の奥に引っかかって出てこなかった。
玄関で靴も脱がずに佇む姉――紫は、デートを楽しんできた、というには暗すぎた。
俯いた頬は赤く、唇の色は冷えきっている。
「姉さん……どうしたの? 早く入らないと寒いよ」
温かいお茶淹れるよ? と彼女に駆け寄り、コートの袖に軽く触れる。
「――ああ、霧ちゃん」
居たの、と小さな声がした。
その声は表情と同じで、暗く沈んでいる。
うん? と首を傾げながらも霧緒は彼女の袖を引く。
何か大事な事を忘れている気がするが、そんなの小さな違和感で。今の霧緒にとっては、姉に暖を取らせる事の方が大切だった。
だが、彼女は動かない。
ただ、俯いたままの口が小さく動いた。
「ねえ、霧ちゃん」
聞きたい事があるんだけど、と彼女は震えた声で言う。
「うん? なあに?」
姉の様子がおかしい。そう思いながらも、袖に手を添えたまま返事をする。
「霧ちゃん。私に、隠してる事、ない?」
ぱちり、と瞬きをして姉の沈んだ表情を見る。
「隠してる事……?」
うーん、と少し考えてみるが、思い当たる事はない。
「無いよ?」
「そう……」
それだけ答えて、紫は再び黙ってしまった。
落ち込んでいる……というより、何かに怒っているようにも見える。元気の良い姉がこんな暗い表情をしているのなんて、見た事がない。
沈黙だけが、玄関を支配する。
その沈黙を破るように、紫の手にしていたハンドバッグがぼと、と滑り落ちた。
彼女が大事にしていたそのバッグを拾おうと、慌ててしゃがみ込んで手を伸ばす。幸い転がった箇所が汚れただけで、軽く叩けば汚れは目立たなくなった。
それでも、姉は動かない。
「……姉さん? 具合悪い、の?」
しゃがんだままちらりと彼女を見上げたその時。
目が合った。
ぞく、と霧緒の背筋に悪寒が走るのと。
「嘘つき!」
紫が霧緒に両手を伸ばして飛びかかってきたのは同時だった。
「――っ!?」
姉の両手は霧緒の首を捉えて、廊下へと押し倒す。
がしゃん、と玄関に飾ってあった花瓶や傘立てを巻き込んで、霧緒の首を床へと押さえ付けてくる。
状況も把握できないまま床にぶつけた後頭部の痛みが、霧緒の意識を一瞬だけ飛ばす。
何? どうして?
何も分からなかった。
こんなに遅い時間に帰ってきたのかも。
こんなに怒っているのかも。
ぎりぎりと自分の首に食い込んでいく指の冷たさも。
眩む頭と、息苦しさで、何も分からない。
「嘘なん、て……」
ついてない、と、訴える声も届かない。
「嘘つき! なんでまだそんな嘘言うの!?」
紫の感情に任せたまま叫ぶ声と、暖かい雫が振りかかる。
彼女は泣いていた。
少し癖のある黒い髪で隠れた顔はぼろぼろと泣きながら喚く。
「貴女、あの人と……和樹さんとどこで会ってたの!?」
彼女の声は続く。
「ねえ! ねえ、答えてよ! 貴女、私と同じ顔だからって、同じ顔だからって、やって良いことと悪いことがあるでしょ!?」
「みな……は、ら……さん? きりお、は……」
何も知らない、という声は冷たい指に絞め潰される。
力が、入らない。こういう時、自分は何か出来たような気がしたが、何も分からない。ただ、指に絡む自分の髪を感じながら姉の叫びを受け止める事しかできない。
首にかかる力は秒増しに強くなる。涙を零す眼は血走り、喚き立てる言葉も、何を言っているのかだんだん分からないものになっていく。
濡れている頬は、姉の涙か、自分の涙かすら分からない。
「ねえ、さ……ん!」
今にも落ちてしまいそうな意識をなんとか繋ぎとめるように、叫ぶ。
その瞬間。
――どくん、とひとつ大きく鼓動が跳ねるのを感じた。
次いで襲う、ぎり、と身体が変容する痛み。悲鳴も上げられず、その感覚に一瞬気が遠くなる。
この感覚は、知らな……いや、知っている?
そんな疑問も、すぐに息苦しさに掻き消される。
みしり、と首が音を立てた時、霧緒は視界の隅にあるものを見つけた。
押し倒された時に一緒に倒れた傘立てと、そこから転がったらしいお気に入りの傘。
姉の手は振りほどけない。
酸素を求めて喘ぐ口からはもう言葉も出ない。が、腕をその傘へと伸ばす。
姉の喚く声は、もう形を成していない。聞き取れない。
首にかけられた指は、物凄い力で霧緒を床へと押し付ける。
身体全体が、何かに押さえ付けられているかのように重い。それでも、霧緒はそれが最後の希望のように、傘へと手を伸ばし――柄に、指が触れた。
瞬間。ぞわりとした感触が指先に走るが、構わずに柄を掴んで腕を引く。
気を抜けば意識を落としてしまいそうな苦しさから逃れたい。
その一心でその「傘」を力の限り振った。
振るにはとても無理のある体勢で、力も殆ど入っていなかったが。ぶしゃり。と。霧緒の想像とは異なる音がした。
首から手が離れ、急に入ってきた空気にうまく対応できない。そんな身体はまともに力を入れる事も出来ず、咳き込み、喘ぐ。
そうして、咳き込みながらも身体をようやく起こした時に見た物は。
廊下の壁に沿って転がる姉の、変わり果てた姿だった。