SCENE3 - 3
「この部屋は何がありますかー、っと」
司がドアを開けた時、そこは日の差し込む広々とした部屋だった。
さっきまではひとつも聞こえなかったざわめき。
気配も感じなかったのに、大勢の人が居る。
着こなしは様々だが、皆同じ服を着ている。男子は黒の詰め襟。女子は紺のブレザーだ。
綺麗に列を作って並ぶ机と、広々とした窓。
左を向けば、掲示板にロッカー。
右を向けば、教卓に黒板。その上には朝である事を示す丸い時計。
気がつけば自分の手にあったドアは引き戸になっていたし、服装も部屋に居る人々と同じ物になっていた。
黒の詰め襟。右肩にかけられた軽いリュック。
そして。
「河野くん。どうしたの?」
後ろからかけられた声に振り返ると、そこには頭ひとつ程背の低い女子生徒が「おはよう」と朗らかな顔で立っていた。
ボブカットの黒い髪をバレッタで留めた彼女は、霧緒……ではない。道園春菜。クラスメイトの女子だ。とすぐさま認識が塗り替えられる。
それじゃあ今一瞬浮かんだ名前は? という疑問すらも、すぐに消え失せた。
「ああ。なんでも」
ちょっとぼーっとしてた。と答えると、彼女はにこりと笑って「もうすぐホームルームはじまっちゃうよ」と言いながら教室の中に入っていった。
「ああ、うん……そうだね」
「こら河野くん。邪魔」
ぼけっと頷いている途中で、後ろからぴしゃりとした声がかかった。
もう一度振り返ると、そこに居たのも女子生徒。相沢恭子。
背中まで流れる黒髪をシンプルなカチューシャで止めた彼女は、真直ぐな視線で「ほらほら」と司を急かす。
「そんな所で突っ立ってたら後ろがつっかえるわよ」
「悪いね」
そう言いながら教室に一歩踏み出すと、彼女はさっさと自分を追い越し、数歩進んだ所でくるりと振り返った。
「河野くん」
「うん?」
「言っとくけど。春菜はダメよ」
「……何が?」
彼女が何を言っているのか見当がつかずに聞き返すと、彼女は大仰に溜息をついてみせた。
「あの子、以外とモテるのよ」
「へえ」
と、自席で鞄から教科書を取り出している彼女の背中に視線を向ける。
「あの雰囲気が良いんだっていうのは分かるんだけどね。あの子警戒心が薄いっていうか……素直すぎるのよ」
だから、と言葉を強めて彼女は詰め寄るように言葉を続ける。
「軽い気持ちで狙ったりしたら、私が容赦しないんだから」
まずは私を倒すことねー、などと笑って立ち去った彼女は、道園の隣の席に座り挨拶を交わす。
「怖いねえ」
なんて呟いて自席に向かい、鞄を下ろす。
教科書を取り出す事もせず鞄を机の横にかけて、ぼやけた――寝ぼけた頭で情報を整理する。
自分はこの学校に潜入していた。「転校生」としてこの学校にやってきて一ヶ月。
任務は「UGNの残党を見つけ出し、処分する事」
情報収集はそう難しくなかった。対象の情報もすぐ手に入った。
対象は隣席の友人と語り合っているあの少女。道園春菜。
そして、今日がそれに最適な日。あとは実行を待つばかり。
そうそう、そうだった。今日はそんな日だった。
ぼんやりとしたまま、規則正しく進む時計の針を眺める。
数ヶ月前にはあり得なかった任務だよなあ、と教室のざわめきを遠く聞きながら思う。
自分は親を知らない。ついでによく分からない能力を持っていたからか、はたまたそれ以外の理由か、色んな家をたらい回しにされた。
どこに行っても落ち着かない日々だった。
自分がオーヴァードで、これまで身の回りで起きていた怪現象の理由が分かっても、普通にはなれなかった。通常以上にウイルスの侵蝕を受けても理性を失わないという体質故に「理性を取り繕っているジャームじゃないか」と言われ、追われた。
そんな風に追われ続けるのが常だったから、居場所を得る為に一生懸命生きてきた。
そんな中。出会った女性が「貴方に丁度良い場所があります」と紹介してくれたのがFHだった。
彼女の言う通り、そこは自分を受け入れてくれた。
黒髪の美しい彼女にそれ以降出会う事はなかったが。追われ続けた自分には、最早FHにしか居場所がなかった。
だから、その為になんでもやった。言葉通り。なんでも。
テロ紛いのものだろうが、なんだろうが。
手が。身体が。心が。汚れようが傷つこうが。汚して傷つけて何を言われようが。知らないふりをした。
だから冬のあの日。FHがUGNに勝利して、オーヴァードの存在が公になった時、これで少しはマシな生活になると、思った事もあった。
現実はどうだったかというと。
逃走と闘争から解放された今、晴れて陰湿に残党狩りなう。
「なーんてね……」
ぽつりと呟いてみた。まったく、虚しいものだった。
このクラスにも随分馴染んできて、言葉を交わしたり昼食を共にしたりするクラスメイトもできていた。
それも今日で終わりだ。
ここに自分の居場所はなくなるが、世界のどこかで居場所を脅かす要因がひとつ減る。結構な事だ。
だが、任務の数をこなす程、足元が沼のようにずぶずぶと沈んでいるようにも感じる。
それが“日常”というものなのかもしれない。
この沼こそが、居心地の良い空間なのかもしれない。
さて。これが終わったら、少しはその“日常”に近付けるのだろうか?
そんな疑問は、チャイムの音で掻き消された。