SCENE3 - 2
その声に振り返り――目の前の光景に、声が出なかった。
そこには椅子から崩れ落ちるように床へと倒れた老人。
彼へと必死に呼びかける、赤い目の猫。
「アサジマ……だと」
全身の毛がざわりとした。
今目の前で倒れているあの老人が。
あの猫[リンド]が必死に呼びかけている相手が、浅島博士。
つまりはあの時。百年前に置き去りにしたユウキだと。
気付いた瞬間、身体は既に動いていた。
跳躍するように駆け寄る。
「ユウキ!」
これが過去の幻影だと。猫も、老人も、もう此処には居ないと分かっていても。
駆け寄らずには、いられなかった。
だが、彼らに触れられる程にまで近付く事はできなかった。
足が、進められなかった。
必死に老人を揺り動かす猫の後ろで、ただただ、その光景を。老人が死の淵に立つ姿を、眺める事しかできない。
「リ、ンド……」
老人の苦しそうな吐息から、言葉が零れた。
「しっかりしろ、アサジマ。今すぐ誰かを――」
「いや……いや。いいんだ」
彼の言葉で、ドアへ向かおうとした足も止まる。
「リンド……東、京へ」
「東京? 調査を、続けるのか?」
その言葉に、老人は答えない。最早、聞こえてすらいないのかもしれない。
朦朧としたその目でどこかを見つめたまま、言葉だけを零していく。
「すまない。お前は、東京で……せめて、……では、なく……彼と――」
「アサジマ……アサジマ!?」
彼ではなく。東京に居る友人と?
何を言っている。理解したくない、と必死に彼の言葉に首を振る背中越しに、浅島博士とリンドの目が――合った。
「あ――」
博士の目が、焦点を結ぶ。
少しだけ照れたように、嬉しそうに。口の端を緩めて、震える手が伸びる。
その手は、必死に呼びかける猫を僅かに通り過ぎ。その後ろに立つ自分へ。
「ユウキ……」
見えるはずがない。見えているはずがない。
これは過去の幻影なのだから、とリンドの頭は必死に否定するが、老人は確かに、自分を見ている。自分へと、手を伸ばしている。
だが、リンドは動けない。言葉も詰まっている。
言いたい事は沢山ある。
あの時、巻き込んでしまった事。
置き去りにしてしまった事。
両親の最期。
変わってしまっていた世界の事。
ひっそりと立ち去った夜の事。
きっと、少年だった老人はどこかで全て気付いただろう。
自分が、ただの喋る猫ではなかった事も。
彼への偽りはなかった。だが、真実も伝えなかった。
そんなリンドはただ、その手を。猫の背中を、呆然と見る事しか出来なかった。
それでも、老人には十分だったのだろう。
ほろり、と目から光る物が零れ落ちたのが見えた。
それが一体、どんな感情かは分からない。
「ああ……リンド。やっと、ここまで――」
来たのか。と、言葉が紡がれるなく。伸ばされた手はあっけなく、床へと落ちた。
『――!』
部屋に残された二匹の声にならない声が重なる。
「アサジマ! アサジマ……っ!」
赤い目の猫は、もう動かない博士の身体を揺すり、叫び続ける。
その声は、しばらく続くと思っていた。
が、すぐにそれはぴたりと止んだ。
「どうして……」
目の前の猫は、力なく俯く。
その背は、震えているようにも見る。尻尾の先も、小さく揺れている。
猫の視線が、老人の伏せられた目蓋から肩、腕へと動き。
「……そうか。そう言う事か」
噛み締めるように漏れた声に、ぎり、と歯の軋む音も混じった。
同時に、リンドは室内の温度が下がったのを感じた。
攻撃の意志ではなく、ただ感情に任せた力の発散。
「アサジマ……オマエは。何も。見ていなかったのだな……。この世界も。“リンド”も。何一つ……!」
怨嗟のようなその声に、室内の冷気が荒れる。
吹き荒れる冷気はリンドの毛をただ荒く揺らす。
「オマエは一体、一体何処を見ていた! 誰を呼んでいた……! “リンド”とは、一体誰だ!」
一際大きな声でそう叫んだ猫は、がっくりと頭を下げた。
冷たい空気が床に広がる。
もう吹き荒れる事はなく、ただただ床を冷やしていく。
猫は、もう動かない老人の前でじっとしていた。
「……俺は」
うなだれたまま、小さな声がした。
「俺は、分からない……オマエがどうしていつも“友人”との事を気にかけるのか。あんなに喜んでいたのは嘘だったのか? 俺は、オマエの良き助手ではなかったか? 遠ざけたかったか? 俺では、駄目だったのか……?」
猫は問いかける。
「此処は、そんなにも否定したい世界だったか……?」
その声はどんどん小さくなり、彼らの姿も薄らいでいく。
そうして、リンドはまた一人、埃だらけの部屋へと戻ってきた。
「……」
老人の――ユウキの最期。
彼はこの研究所で、自分を待っていたのだろうか?
その真意は分からない。
けれども。最期に博士が手を伸ばしたのは、確かに自分だった。
自分はユウキにカオスガーデンの事を話した事はない。だから、「リンド」という名の猫がこの島で生まれる事は知らなかったはずだ。
それにユウキの事だ。“リンド”がこの世界で“浅島有樹”と出会い、友情が芽生えた事は喜ばしい事だっただろう。そして出来るならば。同じ世界に住むもの同士で、絆を深めて欲しかったのだろう。
猫と少年の出会いが偶然か必然か。それは分からないが。
リンドの知るユウキとは――浅島博士とは。そう言う奴だ。
様々な思いが頭の中をぐるぐると回る。
しばらくその考えに頭を任せていたが、ふるふると首を振った。
今、此処で考えるのを理由に足を止めていてはいけないのだ。
きっとユウキなら、そう言うだろう。
最後にもう一度首を振って、この部屋で感じた冷気の残滓を追い払い。
そっと部屋を後にした。