SCENE3 - 1
それ以上何も見つからなかった一階から、二階へ続く階段を登る。
ざっと見て回ってみたところ、部屋の構成は一階とあまり変わらないようだった。
だが、リンドはなんだか落ち着かない様子でヒゲを弄る。
「……なんか嫌な雰囲気だな」
「そうか?」
「うむ……何か、良くない……というか、人の気配が残ってるような……」
リンドの警戒しつつも曖昧な答えに、司はふうん、と相槌を打って周囲を見渡す。
「人の気配は感じられないけど……ま、何かあるのかもしれんからな。注意は怠らないように、っと行きますか」
それじゃあまた後で、と司はそのまますたすたと歩いていく。
「……ツカサは本当に気をつけているのか?」
その背中を見送ったリンドの呟きに、霧緒が「まあまあ」と苦笑いをする。
「河野辺さんはその辺しっかりしてるから、大丈夫じゃないかな」
「あら、霧ちゃん。司に対する信頼上がった?」
みあの軽い言葉に、霧緒は疑問そうな顔をした。
「え。そう、かな……? でも、力量とか技術は、ちゃんと見てるつもり」
「そう。結構な事ね」
それじゃあ行きましょうか、とみあも軽く手を振って足を進めていった。
□ ■ □
リンドがドアの隙間からするりと身を滑らせた瞬間、視界が眩んだ。
思考も、何もかもが真っ白になり。
気がつくとその部屋には人の気配があった。
パソコンに向かう、一人の老人。
それから、隣の机に行儀よく座る一匹の猫。
老人の髪はすっかり白く。猫はまだ若い、艶のある灰色の毛並みをしていた。
部屋は薄暗く、天井の蛍光灯よりもディスプレイの明かりの方が部屋をよく照らしている。
かた、かた。と皺だらけの指でキーボードを叩いては手を休め、しばらくしてからまた叩く。
「――なあ」
声を上げたのは猫だった。
鳴き声にも聞こえるそれは、老人がキーボードを叩く手をそっと止める。
「今日は何をやってるんだ?」
猫の問いに、老人は「そうさな」と小さく呟いて、椅子に背を預ける。
ズレ落ちた眼鏡をゆっくりと押し上げ、息をつくように口を開く。
「いつもの研究論文という名の、分からん分からんと愚痴を書き連ねたラクガキさ」
老人が軽く笑いながら、猫と向かい合うように椅子を動かす。
垣間見えたディスプレイからは、“ダンデライオン・クロック”、“イーター”、“異形”等といった単語が読み取れた。
“その性質はタンポポの種のような物であり、風を時間の流れと例えるなら、種を運ぶ穂の役を人間が担う事で――”と、纏まりのない文章も打ち込まれていた。
柔和な横顔は、目の前の猫へと向けられている。
しかし、猫を見るその視線にリンドは違和感を感じた。
猫はその視線から目を外すようにディスプレイの文面をちょっとだけ覗き込んで。
「なんか……真剣そうなテーマだな」
と言葉を漏らした。
「生涯のテーマだよ。目的は解答に辿り着く事ではなく、対策を立てる事なんだが……」
はてさて、と老人は苦笑する。口元は笑っていたが、その目には深い苦悩が見えた気がした。
「お前にも頼んでいるだろう? 東京での調査」
「ああ。今回も結晶の保持者数に変わりはなかった」
「そうか。それと……友人とは、上手くやっているかい?」
「ああ」
猫はこくりと頷いたものの、老人の表情から視線を落とし「だが」と呟いた。
「俺にはよくわからない。それをしたら何が良くなるんだ?」
「それが分からんのさ」
老人は寂しそうに笑った。
「私は……どうすべきなのか、すべき事があったとして、可能なのか。今更――そんな事に意味があるのか」
言葉を止めるように、老人はゆるりと首を振る。
「連中にとっての新天地、いや、群生地候補……とでも言うのかな。それが“歴史の違う世界”なんだよ。人に付着し、時という風に乗り、辿り着いたその地の風に吹かれながら育って……更なる“違う場所”へ旅立ち、辿り着き、育つ。それが奴らの――」
ぶつぶつと呟く老人の声が遠くなる。猫はそんな老人を、親しみを込めたような、それでも哀しげな。そんな目で見つめ――。
気がついたその部屋は、誰も居ない机と、大量の足跡が残る部屋だった。
「何だったんだ……?」
見渡すとそこは書斎にも見えた。だが、すっかり荒らされたそこに残っているのは、部屋中で壊れている器具、パソコン、書架。破れ、散乱した書物。それらを眺めていると、研究室のようにも見えた。
机や椅子も無惨に転がっている。
その内のひとつは、先程見た老人が座っていた物によく似ていた。
すん、と鼻を鳴らして部屋の空気を確かめるように見渡す。
空気の匂いは異なるが、この感覚には覚えがあった。
煉瓦や木材の赤茶けた色彩が多くを占める、全体的に背の低い風景。
現代とは異なった装いですれ違う人々。
渋谷駅で見た一瞬の光景。あれと同じ感覚がする。
あの時は訳が分からずにいたが、今なら分かる。
これは、強い力との共鳴によって引き起こされている過去の追体験。
「この部屋での……かつての会話、か」
この研究所で何かが起きようとしている前兆なのだろうか。
あの時の感覚を思い出しながら、猫が座っていた場所へと移動してみる。
視線を、もう誰も居ない埃の溜まった机へと向ける。
「……あの爺さん、何者だったのだろう?」
軽く首を傾げる。様々な生き物が住む島だが、リンドは島で人間を見た事などなかった。勿論、老人に知り合いは居ない。
だが、何とも言えない懐かしさがあったように感じた。
あの目元が。
声が。
髪が。
口元が。
どこかで会ったはずだ、という確信をちらつかせる。
「――」
ふるり、と首を振った。
あの老人が誰かは分かない。もしかしたら、この部屋の主やあの猫の記憶に引きずられているのかもしれない。
「……出よう」
机から視線を外し、背を向ける。
入ってきた時と同様にドアの隙間から前足を踏み出そうとした瞬間。
「――アサジマ!」
悲鳴のような声が背後から響いた。