SCENE1 - 1
霧緒が目を開けて、真っ先に感じたのは水の青だった。
それから、砂浜の白。緑が貼り付いた黒い岩場。それは普通に見かけるような、岩場が多い海岸の光景。
水の青は響く音に合わせて繰り返し揺れる。
普段より大きめに聞こえるそれが寄せては返す波の音で、自分はその音で目を覚ましたのだと気付いた。
そして、砂浜に倒れている事も。
どうやら自分は気を失っていたらしい。
まだどこか眩む頭で記憶の終わりと持ち物を探す。
――船が何かに襲われて、それを倒す為に武器を携えて向かった。
ヘッドホンは上着に絡まっていたのをすぐに見つけた。
――河野辺さんはクラーケンだと言っていたが、武器と帽子を取って戻る途中だったのでその姿は見ていない。
刀も傘も、少し離れた所に落ちていた。
それらを拾い上げながら、ふと気付く。
波に浸かっていた靴やスカートはまだ水が滴っているが、ヘッドホンも髪も乾いている。うつ伏せだったからか腹部はまだ濡れているけれども、一体どの位気を失っていたのかと不安がよぎる。
それを振り払うように砂を払い、ヘッドホンを耳にかけて波の音を遠ざける。
そして、混乱している今の状況を整理する。
船が襲われて。傾いて……きっと、ひっくり返されたのだろう。
「それで、船から投げ出されて……」
今に至る。そういう事だろう。
海へ投げ出された時、甲板へ向かう廊下に一人だった。応戦の音はしていたが、その姿は見ていない。
「えっと。みあちゃーん?」
とりあえず名前を呼んでみるが、見渡す限りの砂浜と岩場に、彼女はおろか、船に乗っていた誰の影もなかった。
何処までも続く砂浜と岩場。陸の方に遠く見えるのは、小高い山と、人工の建造物にも見える何か。こうして見た限りでは、普通の島と変わらない。
船から見えた島影は多くなかったが、本当にここがカオスガーデンと呼ばれる島なのだろうか?
自分以外の皆は、無事なのだろうか?
そんな不安を、傘と刀と一緒にぎゅっと抱きしめて。ふと、気付いた。
何か、音がする。
波の音ではない。砂を踏みしめるような、足音のような。
ざ、ざ、と近付いてくるその音を確かめるように振り返ると、そこには人が居た。
深く被った黒い帽子。風に揺れる白い髪。その耳にヘッドホンはない。
黒い上着。赤のインナーにスカート。右手には真っ黒な傘がある。
顔は帽子と前髪に隠れていてよく見えないが。その姿には見覚えがあった。
覚醒技術研究所で水原さんを奪い、姿を消したあの少女。
――もう一人の自分。
「貴女……あの時の」
そんな声が、小さく零れる。
その声は彼女に届いたのだろうか。俯くように頭を下げ、帽子のつばに触れる。
帽子が頭を離れる。軽く首を振って乱れた髪を整え、脱いだ帽子を胸元に掲げるように下ろした彼女の視線が、上がる。
「研究所から無事脱出したのね、良かった」
良かったと言葉では言っているものの、その声も眼も凍り付いたように冷たく沈んだ色をしていて、霧緒への興味は感じられない。
ただの社交辞令として言ってみた。それだけの台詞。
そんな彼女から目を離せないでいると「だけど」と静かに言葉が続けられた。
「ここに来たのは間違い。可及的速やかに立ち去るのが最善です」
「立ち去るのが……?」
それはどういう事だろう、と眉をひそめて反芻すると、彼女はその疑問を拾い上げたらしい。目を閉じて、小さく息をつく。
「ここが危険で。この先に進んでも、得る物は何も無い。そういう事」
だから、と彼女は視線を向け、初めてその瞳に霧緒を映した。
「ここは……居るべき場所ではない。東京に帰りなさい」
「……そんな事」
思わず気圧されそうな冷たさに、言い返す。
「そんな事、言われても……ここで素直に帰る訳にはいかないの」
まだ、仲間の無事も。
カオスガーデンへ行けと言われた意味も。
何一つ分かっていないのに帰れるはずがなかった。
目の前の“霧緒”は、その答えを聞いても表情を変えない。が、それ以上止める事もしないようだった。
ただ、胸元に掲げていた帽子を投げて寄越す。
「……わ」
飛んできたそれを慌ててキャッチしている間に、彼女は背を向けていた。
「貴女の物なのでお返しします。私には不要な物ですし」
表情は見えないが、彼女の声色が変わったのは分かった。
さっきよりも冷ややかで。もう用はないと言うような声。
それから、と背を向けたまま言葉を繋ぐ。
「警告はしましたからね」
言い終わるが早いか、彼女は戻ってきた足跡を辿るように島の内陸部方面へ歩いて行く。
「え……、あ、ちょっと!」
一方的に色々言われたが、こっちにだって聞きたい事は沢山あった。だが、彼女はこれ以上話をするつもりはないらしい。足を止めるも振り返る事もせずに立ち去って行く。
「一体どういう事なの……」
何がなんだか分からない。
ただ、言われたまま帰る訳にはいかない。それだけは確かだった。
砂を落とした髪を纏めて、帽子にしまい込む。
目の前に続く足跡は、波に消される事なく島の内陸部へ続いている。
帽子のつばをきゅっと下ろして、砂を踏む。
そうして足跡を追うように彼女を追いかけ。
霧緒は島の中へと駆けて行った。