ENDING2 - 4
波の音を聞きながら、リンドはどこかを歩いていた。
ああ、これは夢だ。と、すぐに気付いた。
それは、自分の思考があまりに無茶だったからだ。
生まれ育ったこの島で、周囲はリンドを小馬鹿にしたように笑い、リンドは、お前達こそ馬鹿で無分別でろくでなしだと罵っていた。
与えられた書物も。人間の言葉も。島にあるものは全て知り尽くした。
この島で、知らない事など何もない。
だというのに。
「……誰も分かっちゃいない」
ぽつりと呟きながら海岸へ向かう。
彼と出会ったのはその時だった。
海岸で見つけた老犬は、草の茂みの中で丸太をロープで結びつけ、何かを作っていた。
それはどうやら、筏と呼ばれるものだろう。とリンドはどこかで見た図を思い出した。
「おっさん。そんな所で隠れて筏を組んで何してるんだ?」
老犬はその声で初めてリンドの存在に気付いたようだった。
「うん……猫か。いや、海に出ようとな……」
こいつは面白いことを言う、と笑うと、老犬は心外そうに鼻を鳴らした。
「ふん。猫め。この年でもな、犬というものは海は嫌いじゃない……」
そう言いながら、ロープで丸太を固定する。
「何だ。犬のくせに漁でもするのか?」
いやいや、と彼は首を横に振る。
「そうじゃない。いや、漁も良いが。儂はもっと先の――陸が見たい」
リンドはその一言に眼を丸くした。
「……なんだって? おっさん。その、よぼよぼの身体で、か?」
あまりにも無茶だろう、というリンドの態度に、老犬は鼻を鳴らす。
「ふん。見たいものは見たいんじゃ。――何だ。お前さんも他の連中と同じで馬鹿にするだけか?」
そう言いながら背を向ける。
「腰抜けめ。外にどんなものがあるか確かめようともせんクセに。――それとも何か? お前さんはこの島にある本の知識で満足しとるのか?」
「――!」
満足など、していない。
この島にある本も、知識も。全然足りない。
自分は知識を求めていた。島にある以上の知識を得る為に、島の外へと出たかった。
外にどんなものがあるのか。
「……おっさん」
「うん?」
「俺、今猛烈に感動してる」
「ほう?」
筏を作る手を止めた老犬に飛び寄り、リンドは懸命な顔で訴える。
「俺に出来る事は無いか? 何でもする。その代わり――俺も、連れて行ってくれ!」
「なぬ?」
老犬は大きな眉をひくりと動かした。
「おい猫。お前さんひょっとして……海に出たいのか?」
「ああ!」
自分でも驚く程、力強く頷いた。
外に行ける。島の外に。外の世界に。
そこには、自分の知らない物や出来事が沢山あるだろう。
「ふむ……何でもする、と言ったな?」
ではな、と老犬はぼろぼろになった一冊の本を示す。
そのページに図示されているのは、筏の作り方のようだ。
「ここの所を読んでくれ。老眼にはキツくての……」
そんな言葉を聞きながら、ぺらぺらとページを捲ってみる。
水の調達やロープの結び方などが載ったそれは、人間用のサバイバル本のようだった、
「うん。人語は得意だ。この位なら任せておけ……そこの紐はこうで。あの丸太を……そうだ。そして――」
リンドの指示と手伝いで、日が沈む頃には筏は完成間近になっていた。
「ほお。お前さんは賢いのう。儂はもう図面を追いかけるのが精一杯で」
お前さんが居なければまだまだかかっただろうな、と老犬はくつくつと笑う。
「なに、この本がなかなか参考になるものだったんだ。良く見つけたな」
筏の材料も、足りないものは無かった。用意周到だ。と言葉の裏で褒める。
「さて――仕上げは明日としよう」
「そうだな」
老犬と猫は、頷き合う。
「いやはや、今日は気分がいい。――っと。そうだ。儂はグランという。お前さん、名前はなんと言う?」
「――リンドだ。よろしくな、グラン!」
そうだった。
こうやって俺らは出会った。
それから島を出るまで大した時間はかからなかった。
人間の街でグランとは別れてしまったが、そこで俺は――。
目を、覚ました。
「――おはよう、リンド」
どうしたの微妙な顔して、と隣で水平線を見ながら足をぶらつかせるみあが居た。
「……ちょっと、昔の事を思い出していた」
それだけだ。とまだ重たい目をこする。
ふと、グランの言葉を思い出した。
「おう、そうかそうか。お前さんはリンドというのか。……いや、しかしそれだけじゃ足らんな。お前さんの知恵で儂は外の世界を知るんじゃから。そうじゃな……今日からお前さんは“叡智のリンド”と名乗るが良い」
確か、そんな事を言っていた。
「ふうん。昔の事……ね。それはリンドの故郷の事?」
「ああ。俺達がこれから行く所さ。その島を出た時の事を――」
思い出していたんだ、と独り言のように呟く。
「カオスガーデン……か。あたしも行った事はないのよね」
見える島影との距離を測るように、彼女の視線が水平線をなぞる。
「どんな所なのか、少し話を聞かせてくれない?」
よいしょ、とリンドはみあの膝に乗せられ、穏やかな手つきで頭や背を撫でられる。
「そうだな……何処から話せば良いだろうか……」
思い出が詰まった混沌の庭園。
楽しい事も、辛い事も、あの島には沢山あった。文句もあるだろうが、話は尽きそうにないような気もした。
「そうだな……とりあえずカオスガーデンは魔境だ」
「へえ、魔境ねえ」
くすくすと、みあは楽しそうに笑う。
「とりあえず司には霧ちゃん呼んできてもらってるから……皆揃うまでゆっくり――」
考えなさい、という言葉は、慌てた足音で掻き消された。
みあとリンドの視線が向いた先に居たのは、気を失った霧緒と、彼女を抱えたまま肩で息をする司。
「ちょっと司。確かに霧ちゃん連れてきてとは言ったけど……」
「ツカサ……やはりお前キリに恨みでも……」
「違えよ!?」
二人の何かを疑うような視線に、司が全力で否定する声が飛ぶ。
「じゃあ何だって言うのよ」
「うん、でっかい化け物が――って、こら。今度は可哀想な目でこっちを見るな」
溜息をついて霧緒を床に下ろすと、彼女が小さく身じろぐ。
それに気付いたリンドがみあの膝から飛び降り、霧緒の頬をぺちぺちと叩く。と、彼女はうっすらと目を開けた。
「霧ちゃん、司に何されたの?」
「う……河野辺さんが……? えっと……それで、後ろから……」
殴られたみたいで、と霧緒はふらりと立ち上がる。
「司……」
「いや。だから俺じゃないって! なんかでっかい――」
そんな言葉の途中で、ぎしり、と船が軋む音がした。
「……ねえ、何か軋んでない?」
「だから向こうにでっかいイカが居たんだって!」
「イカ?」
「うん。イカ。クラーケン、ってヤツだなあれは」
怪訝な声で繰り返すみあに、司は至極真面目な顔で頷く。
そのやり取りをどう捉えたのか。みあは沈痛な面持ちで溜息をついた。
「向こう側はもう足に絡めとられてんじゃね?」
「そんな悠長にしてる場合じゃないでしょ!?」
「うん。船が傾くのも時間の問題だな」
よーし今夜はイカ焼きかあ、と司が銃を手に、ぐっと背中を伸ばして戦闘準備に入る。
「……緊張感無いなお前ら」
リンドは呆れて溜息をついた。
「お前達だったらカオスガーデンも動物園に見えるかもしれんな」
「こんな動物園は行きたくねえ!」
必死な叫び声と銃声が響く。
「あ。ああ……お手伝い、しますよー」
霧緒も少しだけ頼りない足取りで向こうの甲板へと駆けていく。
そんな船上で、誰一人として気付かなかった。
船に迫る影が、それだけではない事に。
海の底から勢いよく迫る巨大な生物に。
それは、渾身の力をもって、船を底から突き上げる。
そして。
一際大きく揺れた船は為す術なくひっくり返され。
全員が海へと投げ出された。