ENDING2 - 3
彼女の目から突然涙が零れた時、一瞬何があったかと思った。
だが、何の事はない。きっと彼女の中の緊張の糸みたいなものが切れたのだろう。
司は潮風に前髪を揺らしながら、彼女がぽつぽつと話す言葉を静かに聞いていた。
時折言葉を詰まらせながら語られるそれは、どこからどう聞いても、自分には縁のない話だった。
好きだとか。姉妹だとか。家族だとか。恋だとか。
物心ついてからずっと、生きる事に、居場所を得る事に一生懸命だった自分の中には無かった言葉だった。
だから、彼女の涙がどれだけのものかはさっぱり分からない。
けれど。
そんな感情に翻弄されているその背中が。
声を上げないようにしながら泣き続けるその姿が、少しだけ羨ましく見えた。
どれだけ経ったのか分からないが、彼女は泣き止んだようだった。
「落ち着いた?」
「……はい、すみません」
いやいいんだけど、と司は彼女の方は見ずに言葉を続ける。
「なんつーかさ」
「……はい」
すん、と袖で眼をこすりながら彼女が顔を上げる。
こちらにちらりと向けた視線は、少し潤んで赤くなっていた。
「俺にはよく分からないけどさ。霧ちゃんみたいに、そう言う事で悩んだり一生懸命になれるってのはいい事だと思うよ」
「そういうもの、ですかね」
首を傾げる彼女に、うん、と頷く。
「俺には縁がなさそうだけど」
「そうですか?」
再度頷くと、くすりと笑う声がした。
視線を少しだけ向けると、赤い目のまま彼女はちょっとだけ微笑んでいるように見えた。
「それは分からないですよ? 河野辺さんにも、もしかしたら分かる日が来るかもしれません」
結構苦しかったりするんですから、と彼女は小さく笑って付け足した。
「えー……それはちょっと嫌だな……」
「ふふ……。でももしかしたら河野辺さんは私みたいに悩んだりしないかもしれませんね」
どうだろうね、と視線は海の方へ戻してぼんやりと返す。
正直自分の身にそのような悩みが降ってくるという事自体、考えつかなかった。
「万が一悩んだら、相談くらいなら乗りますよ」
「あったらね」
「ええ。……ところで」
霧緒が少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「うん?」
「ここまで話を聞いてもらっていて大変恐縮なんですが」
「うん」
「この事。忘れてください」
「え。無理」
即答。
霧緒の反応も、早かった。
「何でですか!」
声を上げ、困ったように詰め寄ってくる。涙の残る赤い目だけど、その勢いはいつもの通りだった。
「いやあ、そうそう忘れられるもんじゃないし……それとも何。忘れたふりでもして欲しいの?」
にやり、と笑いながら見下ろしてやると、彼女は言葉を詰まらせた。
「……そ、それはそれで、なんか、怖いです」
霧緒はそろそろと視線を下ろし、うー、と小さく唸る。
「だろう? ――まあほら」
くしゃり、と彼女の頭を撫でてみる。
「霧ちゃんがそうやって悩むのは、良い事だと思うからさ」
大事にしなよ、と更にくしゃくしゃと撫でて、背を向ける。
数歩進んで、足を止めた。
「――っとそうだ。忘れる所だった」
振り返ると、彼女はくしゃくしゃにされた髪を整えながら、はい? と首を傾げた。
「君を探してた本題。リンドが故郷の話、してくれるって言ってたから探しにきたんだった」
落ち着いたらおいでよ、と言い残し、今度こそ背を向けて足を進める。
――と。
背中に気配を感じた。
どこか生臭くて、重い空気が辺りを覆う。
――避けないと酷い目にあう。
直感でそう感じた司は軽い足取りで振り返り、飛んできた物体を――人程の大きさもある何かを両手で受け止めた。
「っと……一体何なん……」
腕の中のものへ視線を落とす。
白い髪。黒い服。力なく崩れる身体。
きゅう、という擬音が似合いそうな程に。
彼女は気絶していた。
「え……は? ちょっとー……?」
おーい、と声をかけても、頬を叩いてみても、彼女は目を覚ます気配がない。
受け止めた時背中にあてた手には、ぬるりとした液体と海水の混じった何かがべったりと付いていた。
「一体なんだってんだ……ん?」
ぼやく視界の隅に、何か影がよぎったような気がして、顔を上げた。
そこには、巨大な影があった。
「――」
それが何か、と思考が辿り着くより先に。
司は黙って霧緒を担ぎ、全力でその場を後にした。