ENDING2 - 2
カオスガーデンへは、船で数日の日程だ。
波も風も穏やかで、順調に進んでいる。
島影も見えてきて、もう数時間もあれば到着するはずだ、とリンドは言っていた。
水平線と島が見える船の甲板で霧緒はひとり、波を眺めながらヘッドホンの位置を直していた。帽子は飛ばされちゃいけないからと部屋へ置いてきた。
ポケットを探り、取り出したものを少しだけ日に翳す。
それは何の変哲もない、鍵。
助けてくれた次の日に、水原が与えてくれた合鍵だ。
「……ちゃんと、さようなら言えなかったな」
はあ、と溜息が出た。
自分がオーヴァードになって家を出た時も。
目の前で自分に彼が連れ去られた時も。
自分は、何も言えなかった。
それは、自分から彼を遠ざけていたからに他ならないのだけど。
もう少しでも、ちゃんと会って話をすれば良かったな。と視線を水面へと落とした。
船を調達するまでの間に、少しだけ時間をもらって彼の家の近所へ立ち寄らせてもらった。
本当はこの鍵を返すつもりだったのだが、部屋に灯っていた明かりを見て、思わず引き返してしまった。
連れ去られた水原は、ちゃんと家へと帰されていた。
あの部屋に、彼が居る。
姉が居なくなって。自分も姿を消そうとしている。
もう一人の自分がどこに居るのかは分からない。
あの部屋に居るのかもしれないし、もう別の場所に居るのかもしれない。
どちらにしろ。
彼は、一体何を思ってあの部屋に居るのだろう。
そう思ったら、なんだか怖くなって足がすくんだ。
鍵なんて郵便受けに放り込んでおしまいにするつもりだったのに。
お別れではなく拒絶をした彼に、なんだかそれ以上近寄れなくて、逃げるようにその場を後にした。
そのまま今に至る――そう言う訳だ。
「君は怪我したり辛かったりすると、親しい人からまず離れるクセがあったから」
彼は、自分の事をそう言った。
そうですね。と遠くに居る彼へ頷く。
本当の所は。
霧緒は逃げているだけなんです。
答えのように、心の中で呟く。
巻き込んでしまうのが。心配されるのが。優しくされるのが。なんだか怖かっただけ。
出来る事なら、皆には心配なんてしないで、心穏やかに過ごして欲しい。
巻き込んでしまうなら、守れば良いのだと、今なら分かるんだけど。
守れてないし、なあ……。
「はあ……」
溜息しか出なかった。
自分の不甲斐なさというか。なんというか。
手の平の鍵を見つめて、ぎゅっと眼を閉じる。
ぐ、っと祈りを込めるようにその鍵を握りしめ――手を開くと、そこに鍵はなく。代わりのように、さらさらと零れる砂の山だけがあった。
手の平を差し出し、風に乗って海へと落ちていく砂を、ただぼんやりと眺める。
零れていく砂を見ていると、姉が死んでしまったと聞かされた時と似たような、どこか空虚な感覚が胸をよぎ――。
「――あ、霧ちゃんここに居た」
かけられた声に、びくり、と背筋を伸ばした。
咄嗟に両手を後ろに回して、手すりに背を預けるように振り返る。
「あ。え……えっと。河野辺さん」
どうしたん、ですか? としどろもどろな声で尋ねる。
「うん。どうしたのって聞きたいの俺の方だけどね?」
スカート砂だらけだよ? と、とても不思議そうな顔で指摘される。
「あ、あの……これは、えと、別にちょっとしたアレで……じゃなくて、えっと……その」
もう何を言っているのかすら分からない。ばたばたと砂を払いながら、自分で墓穴を掘っているというのが嫌という程分かった。
慌てればそれだけ余裕がなくなるのも、分かっている。
司が呆れたように溜息をついた。
「とりあえず落ち着……」
その言葉が途中で、何かに詰まったように途切れ。
「……うん。とりあえず落ち着きなよ」
そして、言い直された。
「あ……はい。大丈夫で――え?」
こくん、と頷いて気付く。
頬に、何かが零れていた。
「あ、あれ……?」
袖で拭うが、頬は濡れたまま。それどころか、袖もどんどん濡れていく。
それが涙だと気付くのに、少しだけ時間がかかった。
「ご、ごめんなさい……!」
慌てて背中を向けて、眼をこする。
よりによって。よりによって人前で。みあちゃんのような女の子ではなく、河野辺さんの前で。
そんな事思ったって、涙は止まってくれない。
自分の意志とは関係なく、ぼろぼろと零れていく。
一体自分は、何を泣いているのだろう?
止まらない涙を懸命に拭いながら、考えた。
好きだった人を諦めたから? いや、それはもう、ずっと前の話。
諦めきれてなかった? ううん。霧緒は、姉さんと水原さんが一緒に居てくれる方が、嬉しかった。それは、嘘じゃない。
それじゃあ、何で?
「――何で?」
「いや、知らないけど……」
思わず声に出ていたらしい。至極真っ当な言葉が返ってきた。
「それで分かってたら……怖いです……」
「ですよねー」
そんな軽い声で、彼は隣の手すりに寄りかかる。
こっちを見る訳ではない。ただ、風に髪を揺らしている。
「とりあえずさ。頭で考えるより言葉にしてみたら分かるんじゃない?」
「う……そ、そうですね……」
そうして、ぽつぽつと、誰に聞かせる訳もなく、ただ自分の思考をまとめる為だけに、言葉を綴った。
好きだと思ってた人が居たこと。
自分が一緒に居るより、姉と二人で居る姿を見る方が幸せだったこと。
だから、二人とは距離を置くようになったこと。
オーヴァードになって、二人とは会わなくなったこと。
きっと、記憶操作で自分の事は忘れてるだろうということ。
でも。この世界で久しぶりに会って、話を出来たのは嬉しかったこと。
水原さんを巻き込んでしまって、本当に後悔したこと。
本当の所。
研究所で問われた「一緒に帰ろう」という言葉が、怖かったこと。
自分は、姉ではないし。この世界に居るはずの妹でもない。
何より。彼の隣に立つ影は常に姉のそれで。そこに立つ自分が、全然想像できなかったこと。でも、それが――。
「――あ」
ふと、気付いた。
それは、初恋という感情だったのだろう。
声に出す事を止めた口元が、涙に濡れた頬が僅かに緩む。
本当はただ羨んでいただけなのかもしれないが。今ならば、そう呼べる気がした。
水原を見て花のように笑い、幸せそうに彼の事を話す姉を。同じような顔で姉の事を話す彼を。
そんな、関係の二人を。
自分はもしかして。「恋をしている姉と水原さんの関係」に恋をしていたのではないだろうか。
そして。その光景に、二度と会う事が出来ない事実が、辛いんだ。
それにずっと気付かずに。いや、見ないふりをしていたんだ。
要は。霧緒の初恋が終わった。
それだけの事だ。
「あはは……そういうこと、ですか」
俯くと自嘲気味な笑い声が嗚咽に混じって漏れた。涙はもうしばらく、止まりそうになかった。