CLIMAX - 6
霧緒に攻撃を弾かれても春日は何も言わない。ただ、唸り声を上げるのみ。
時々言葉のようなものを吐きはするが、それを言葉として認識する事は難しくなっていた。
それを冷静な目で眺めるリンドの中に、人と獣の境目とは一体なんだろう、という疑問がよぎる。が、今はそんな事考えている場合ではない、と改めて身構えた。
春日は荒い息のまま、次々に爪での攻撃を繰り出すも、霧緒の斥力や傘でいなされ、司の銃弾で方向をずらされ、己の傷を増やしていく。
リンドも軽く飛んで距離をとり、周囲の空気を操りながら狙いを定めた。
「全力でいかせてもらうからな」
ぐ、と身体に力を込めて冷えた空気から水の刃を大量に作り出す。
先程まで放っていたものとは桁違いの数の刃を結び、一気に解き放つ。
相手まで一直線に届くよう空間を調整し、狙いを定めた刃が次々と異形達へと当たっていく。これまでの戦闘で、異形の弱点は見抜いている。そこを正確に狙い撃ち、着実にその数を減らしていく。
異形の数が減った事で、その向こうにいた人物も刃の射程内へと組み込む。
腕の一部を千切られた春日は、紅い液体を撒き散らしながら声を上げている。
末利は。白衣のポケットに手を突っ込んだまま、どこか冷静な目で刃の軌道を読んでいた。
そこから彼女がとった行動は簡単なものだった。
二歩左へ。
彼女の動きはそれだけ。
そうして春日の後ろへと回り込むことで、彼女を切り裂くはずだった刃は空を切る。
春日に傷をつけた事で刃としての鋭さを無くし、ただの飛沫となった水を振り落としながら、末利が興味深そうに笑い――白衣がふわりと翻った。
途端、じわりと滲んだ空気にリンドは思わず爪を床に引っかけて身構えた。
その空気の変容は、自分が空間を操るものと良く似ている。とヒゲで感じる。
空気の変容に気を取られた隙に、末利の手には数本の試験管があった。
透明な液体が入ったその試験管を、床へと軽く放り投げる。
「これで、少しは足しになるかしら」
そんな声と、かしゃん、と床で試験管が弾けた音が重なった。
薄いガラスの破片と透明な液体が、うっすらと紅い光を弾いて床に広がる。その液体はじわりと春日や異形達の足元を濡らし――そのまま染み込むように消えた。
その液体を吸い取った異形は一瞬だけ動きを止めたように見えた。
司はその隙も逃す事なく銃弾を撃ち込み、マガジンを入れ替えてはまた引き金を引く。
先程叩き付けられた時の傷は随分とマシになってきたが、だからといって気は抜けない。
特にあの末利の試験管は、得体が知れない。
なにせ彼女は科学者だし。ここは研究所だ。そりゃあ怖い。一体何が起こるというのだろう?
そう思った瞬間、液体を吸った異形達の身体が大きく膨れた。
音はなく、こんな状況じゃなかったら風船だと思ったかもしれない。
だが、銃弾を撃ち込んでみても、それは弾けることも割れることもせず、むくむくと形を成していく。人程のサイズだったそれはいつしか見上げる程大きくなり、その形状も既に人形ではなく。例えるなら――巨大な爬虫類。
顔のパーツのような何かが淡く光るだけの巨大な異形は、ぐ、と後ろ足で立ち上がり、やけに鋭利な爪を振り上げてくる。
だが。
大振りな分、その動きは隙だらけ。
避ける事など、簡単だった。
まずは一匹。壁から離れ、異形の横をすり抜けるようにして避ける。
二匹。正面から迫る腕をスライディングでくぐり抜け、その先に居たもう一匹は銃で撃ち抜く。腹部が少し痛んだが、動きには支障ない。
変形した異形は身体の大きさに比例して、勢いも威力も大きく増している。現に、空振りして壁に叩き付けられたその爪は、壁に大きな穴をあけていた。
更に三匹。その間に居る見慣れた形状の異形は正面から、大きな異形は足元から回り込み背中から銃弾を撃ち込む。その異形達が倒れるより先に、後ろから爪が振り下ろされる気配。一歩横に飛んで、銃口だけを背中に向ける――が、引き金の指に力を入れる前に、空気の抜けるような、蒸発するような、最早聞き慣れてしまった異形の消滅する音が聞こえた。
続いて届いたのは、鋭い風圧とブーツが小石を踏む音。
その主は、振り返らなくても霧緒だと分かる。
背中はそのまま任せる事にして、視界に入る異形へとターゲットを変更して銃口を向け直す。
彼女は何も言わないが、息遣いと風を切る音が断続的に続く。
「ねえ」
「なんでしょう?」
お互い背を向けて異形の数を減らしながら、短い言葉を交わす。
「俺も一緒に斬らないでね?」
異形を斬り伏せる音の合間に返ってきたのは、少しの沈黙と小さな吐息。
「銃口を向ける相手を変えない限りは、約束しましょう」
「もし変えたら?」
「容赦はしないつもりですが?」
「おお怖い」
けらけらと笑いながら言ってやると、「当然じゃないですか」という言葉と共に、また一体斬り伏せられて消える音がした。
「さて――そろそろ異形達にはそこを退いていただかないと」
そんな言葉に続いて、改めて身構える靴音。
目の前に残った一体を片付けてようやく振り返ると、彼女は左腕だけで獲物を構えていた。
右腕はだらりとぶら下がったまま。よく見れば、服の上から人の指のような、けれどもそれにしては長すぎる何かが突き刺さり、まとわりついている。ぺったりと腕に貼り付いている袖から覗く彼女の指は、やけに血の気が無かった。
少しだけぎこちない動きではあるが、彼女は鎌を器用に回し、攻撃しようと腕を振り上げた異形達を水平に薙ぐ。
大半はその攻撃に耐えきれず、上下を切り離されて蒸発し。
辛うじて切り離されるのを免れたものは、残らず銃弾の餌食となった。
司と霧緒が異形を倒し尽くし、残るのは末利と、獣と化した春日だけとなった。
「……さすが。その人数でその手数。割と化け物ねあなた達」
末利の感嘆のような、呆れたような。そんな声にみあは応えない。末利を静かに見つめながら、次なるフレーズを紡ぐ。
「♪――、――♩♪、♩――」
軽く指揮を執るように、風の流れを操作して、鋭く叩き付ける流れも作り出す。
自分の記録に残る、誰しもが持っているであろう恐怖を折り込み、精神を乱す響きを持ったその歌声は、穏やかなフレーズとなって風に乗る。
白衣の裾と髪を少しだけ揺らした風に、末利は眉を少しだけ寄せた。そして、鋭さを増した風と蝕む歌声が届く直前に彼女は耳を塞ぎ、春日の背後へと身を隠した。
歌声も。身を裂くような鋭い風も。春日の身体を傷つけ、内面から精神を冒していく。
春日は狂ったように、爪で喉や頭を掻きむしり、くぐもった唸り声を上げ続ける。
みあの歌声が途切れる前に、己に突き立てた傷から流れ出る紅い光にまみれた春日はゆっくりとその動きを止め――。
その目が、一層紅く輝いた。
限界まで見開いたその目は、ただただ紅く、紅く輝く。
苦しいのか。暴走した衝動に身を任せているのか。それは分からないが彼はそのまま腕を振り上げ、襲いかかってくる。
その腕にいち早く反応したのは霧緒だった。
腕の軌道近くに飛び込んだ彼女は、片腕のまま獲物を構える。襲いかかる腕を引き寄せて軌道をずらし、鎌を腕へ突き立てるように振る。がきん! とぶつかる音が響き、腕を貫通して地面を削る鎌の柄が僅かにたわんだ。
踵に力を込めてその威力を相殺すると、貫かれた春日の腕はそこから鎌の柄をずるずると這い上がって彼女の腕を捉えようとする。
が、その前に霧緒は刃の付け根を地面にあてたまま――柄を這い上る腕ごと踏みつけるように、柄へと飛び乗った。
先程の腕を引き寄せて留めた衝撃に耐えた程の硬度を持つ武器なら、彼女程度の体重を支えるのは簡単なはずなのに、同時に重力を与えて踏み込んだのか。柄を脆くしたのか。それは、春日の腕を巻き込んで容易くへし折れた。
腕が折れた柄に巻き込まれて千切れ、春日が咆哮を上げる。
そのまま霧緒は鎌を手放し、替わりのように刀を手にした。