CLIMAX - 5
「おお……なんかいつもの調子になってきた、か?」
どこか疑問混じりの司の声に、みあは春日から視線を外した。
が、その咆哮と共に襲いかかってきたのは、体中を沸き立たせるウイルスの暴走衝動。
春日の叫びに呼応するかのように、湧き出る白い異形とその衝動には、あまり嬉しくはない慣れがある。
司もリンドも少しだけ身構えてその衝動を振り切ったようだった。
霧緒も。まだ少し苦しそうだが、白い異形達を睨みつけるようにして衝動に耐えていた。
部屋の中を吹き荒ぶ風のようなそれが収まった頃には、春日と自分達を隔てるように、湧いた異形が部屋を埋めようとしている。
そんな中で。一瞬だけ、末利がどこか痛ましい目で異形達を見つめていたのが見えた。
その目にどんな感情があるのか、読み取る術はない。
答えはさっきのやり取りの中にあるのだろう。
しかし今は、そんな感情に浸っている場合ではなかった。
真っ先に動いたのは司だった。
舌打ちした彼は、振り下ろされた異形の腕をくぐり抜けるようにして、仲間から距離をとった。
ふらりとした、どこか緩慢にも思える異形の腕は、彼の身体ではなくリノリウムの床を捉えて深く抉り。欠片と土煙が周囲に広がる。
「……このままじゃいけないわね」
みあは埃っぽい空気の中で息を吸い、呼吸を整える。
そして、少しだけ意識を異形達へと向ける。
見た所、彼らはこれまで対峙してきた異形と殆ど変わらない。
ならば、この空間に存在するウイルスを支配すれば、多少の抗力にはなるかもしれない。
「問題は――ウイルスが言う事を聞いてくれるかどうか、ね」
不安はあるが悩んでいる暇はない。
意識を浸透させるように、部屋の中に存在するレネゲイドウイルスを支配下に置くイメージを広げる。
摩擦のような抵抗と、僅かな頭痛を感じるが、それを振り払うように顔を上げ、その言葉を告げた。
「さあ。我が意に従いなさい。同胞達」
途端、部屋の空気が一気に粘度を増したように、異形達の動きが鈍くなった。
ウイルスの異変を感じたのか、末利の漏らした呟きが聞こえた。
「最近生まれ変わった割には、マトモな力を使うわね……」
その声に混じっているのは、焦りだろうか?
だが、彼女の表情や仕草は異形達に阻まれて見る事は叶わない。
そんな間にも、動きの鈍った異形達に司の放った銃弾や、リンドの生み出す水の刃が次々と打ち込まれていた。
二人の動きを見る限り、行動に何かしらの制限はかかっていないようだ。ウイルスの支配は目論み通り、みあが敵と認識した者にだけ影響を与えていた。
倒れては蒸発するように消えて行くそれらを縫うように駆ける司は、何の躊躇いも無く異形達の中へと飛び込んで行く。すれ違う異形には避けられようもない程の至近距離で。攻撃をしようとした異形には、光のように一直線の弾丸で。次々と異形達の数を減らして行く。
異形の方も、ただ為す術なく撃ち抜かれているばかりではなかった。
あるものは他の異形を盾とし、あるものは銃弾を避け。
そして、銃弾を受けてぐらついたある異形が、ふらりと腕で彼の腹を薙いだ。
途端、そのゆるやかな動きからは予想もつかない程の力で、司は吹っ飛ばされて壁へと叩き付けられた。
壁が大きくへこみ、呼吸が一瞬飛んだのが分かった。
「――っ! ぐ……」
床にずるりとへたり込んだ司が、げほ、と咽せると、ぼたぼたと零れた血液がシャツを汚した。
「河野辺さん!」
霧緒の心配そうに飛んだ声に俯いたまま、銃を持たない方の手を力なく振って応える。
「あー……UGNに心配されたら俺、仲間だって思われるじゃないですかー」
やだー、と俯いたまま、まるで棒読みのような声を上げる。
「……今更じゃないの?」
みあが声をかけると司はようやく顔を上げ、袖で口元を拭いながら口の端をつり上げた。
「いやいや、霧ちゃん独房目的だったし、今ならまだ間に合ったかもよ?」
よいしょ、とふらつく足元を確かめながら立ち上がり、腹部を確かめて嫌そうな顔をした。そして「ああでも」と銃口を唸る春日へと向ける。
「俺さっきも“上司”に銃口向けたじゃん。それじゃあ言い逃れは無理だな!」
仕方ない、とあっさり笑いながらそのまま引き金を引いた。
「全く……」
緊張感皆無ね、と溜息をついたみあに、霧緒もこっそりと同意しながら傘を握りしめた。
あれはあれで、彼なりの決別なのかもしれないし、なにか考えがあるのかもしれない。
軽口を叩いてこそいるが、その呼吸はまだ整っていない。先程壁に叩き付けられたダメージがどれほどのものかは分からないが、あの衝撃なら骨はいくつか折れてしまっているだろう。回復にはもうしばらく時間がかかりそうに見えた。
しかし、それでも彼の放った銃弾は、大幅に数を減らした異形達の間を突き抜け、春日へと命中する。――が、それは彼の身体を抉るには至らなかった。
「お……おおおオぉぉおぉ!」
春日の咆哮が部屋を振るわせる。
それに合わせるように、彼の身体が更に大きく変貌する。
腕も、脚も。身体全てが一回り――いや、二回りは大きく盛り上がり、膨張したように見えた。
目の錯覚でも何でもない。人であった面影などどこにもなく。獣のような筋肉質な身体と、獰猛な空気が吐息に混じる。
一歩を踏み出せば、床にヒビの入る音と、ぐちゃりと何かを踏みつぶしたような音が混じって聞こえた。先程斬り落とされた右腕を踏みつぶした。そんな音だ。
足元も、飛んでくる水の刃も、身体に響くような歌声も、何一つ避ける事すらせずに腕を振り上げる。
大きく変異したかぎ爪が振り下ろされる。その腕の長さでは到底届かないと思われたその腕は、遠心力に乗ったかのように――進路に居た異形達すら巻き込んで、大きく伸びて襲いかかってきた。
このままでは、全員があの爪の餌食になってしまう。
そう思った瞬間。身体が動いたのと、爪が目の前に迫ったのはどちらが早かっただろうか。
咄嗟に傘を手放し、左手でヘッドホンと帽子を押さえて右腕を差し出した。
傘が床に跳ねる音は聞こえない。替わりに、きん、と何かに呼応するような小さな音が耳元で響いた。
目の前に迫った腕を重力の向きを変える事で差し出した右腕へと引き寄せ、受け止める。その腕をしっかりと掴んだまま、斥力でその勢いを殺そうとする――が、ごきり、と腕から嫌な音がして、肩から弾かれるように腕が跳ねた。
「……っ!」
音にならない声が零れる。
しかし、そのまま殴り飛ばされたら、後ろに居るみあやリンドにまでその腕は容赦なく襲いかかってしまうのは分かっていた。
せめて。自分の手が届く範囲は。自分の後ろは。守らなくてはいけない。
それだけは、と言い聞かせて手を離す事はしない。踵にも、力を込めて立ち続ける。
その間にも、鋭利な爪が腕へと食い込み、ぐにゃりと軟化した指が締め千切りそうな強さで絡み付く。
その光景のおぞましさに思わず腕を引きそうになる。
「キリ!」
リンドの声が響くと同時に、水の刃が春日の腕を掠めて行く。
頬に当たった飛沫で、奪われていた視線と意識を立て直して、腕を払う。
「この位で……倒れられる訳、ないじゃないですかっ」
ぎり、と奥歯を噛み、腕の一部を千切って弾き返す事には成功したが、絡み付いた指と食い込む爪が残ったままの右腕は、肩から力なく落ちたまま。滴る血液が袖を染めて行く中、ぎりぎりと骨や肉が戻ろうとするのが服の上からでも分かるが、しばらくは動かせなさそうだった。