CLIMAX - 2
「え……?」
霧緒は思わず言葉に詰まった。
誰かに言わされているのか、彼の言葉なのか。そんな判断すら忘れるほどに、唐突なその話。
一緒に? 帰る? どこへ? 誰が?
そんな疑問が渦巻く。
「それは……私に、霧緒に言っているんですか?」
「勿論さ」
彼は頷いた。
その返事の真意を、考える。
自分が、ここで帰る。ここに残るとは。一体どういう事なのか。
水原さんは姉の婚約者だった。本来ならば、姉が彼の隣に居るべき人だ。それは、もうずっと前から分かっている。
そこに、自分が立つ?
――違う。
真っ先に感じたのは、違和感なんかではなく、どうしようもない壁だった。
何がそう感じるのか分からない。
でも、確かに感じるその存在は、二人の間を塞ぐようだった。
「……ここで、はいと答えられたら、幸せなんでしょうか……」
そんな言葉が、零れた。
「でも、ごめんなさい。……私は、貴方と一緒に帰る事は出来ません」
「どうしてさ。やっと、会えたのに」
彼の言葉に、首を振る。
「ここは……私が知ってる場所と、あまりに違いすぎるんです」
そうとしか、言えなかった。
本来そこに居るべきは姉だろうし、そうでなかったとしても、それは“自分”ではない。
「そりゃあ……そりゃあ変わるさ!」
ホールに水原の悲痛な声が響いた。
「紫君が事故で死んで……君が居なくなって! 僕は誰と会ってたっていつも通りにはいかない!」
何も言えないまま、彼の言葉は続く。
「世界だってそうさ。政治家はいつの間にかオーヴァード一色だし、君の家とも疎遠になって……気が付いたら僕が彼女を殺したんじゃないかとすら噂されてる!」
何かに憤るような、悲しそうな。そんな言葉はどんどん支離滅裂なものになっていく。
「どうしたって、僕は。……なのに。君まで、どうして僕から」
離れて行くんだ、と最後の声は掠れる程に、小さな声だった。
なんと言えば良いのか分からなくて、俯く。
「……ごめんなさい」
少しだけ言い淀んだけど、首を振って口にする。
「ごめんなさい。でもやっぱり……無理なんです。私は、違うんです」
少しだけ、彼を見上げてみた。
この世界は、やっぱり色んなものが違って見える。
それは、目の前の彼だったり。
自分の居場所だったり。
立ち位置だったり。
元居た場所では見えなかったり、見なかったりしたものが山積みになっているような。
でも、根元がとても危うくぐらついているような。
要は。自分のもののようでいて、何一つそうじゃない。全く知らない世界。
自分に出来る事は、拒絶だった。
「霧緒は、この世界の霧緒にも、姉さんの替わりにも……なれません」
言い切った。
きゅっと口元を結んで、それ以上零れそうな言葉を堪える。
ぐっと視線を上げて、彼の狼狽えるような視線を真正面から受ける。
今の言葉を、どう捉えたらいいのか困惑した表情が、すごく苦しい。
「この世界、って……君は何を、言ってるんだ……僕は――!」
そう、叫びかけた時。
「くだらんな」
ぽつりと、それまで様子を見ていた春日がぽつりと漏らした。
眼鏡の奥から冷たい視線を向けながら、彼はこつこつと踵の音を響かせて水原の隣へとやってきた。
「“死神機巧”。貴様、まさかこの男に、色恋だけの問答をしていた訳ではあるまいな?」
見下すような目で、彼は問う。
「ここで帰らぬ、と返答する意味。分かっているのだろうな?」
「それは……」
一瞬言い淀んで、水原をちらりと見る。
彼も、その答えを待っているのか、それとも隣に春日が居るからか、不安げな眼差しでこちらを見ている。
「そんなこと……分かっています」
その答えに、春日は「ほう」と小さく頷いた。
「なら、この男がどうなるかも分かっているな?」
ぐ、と言葉に詰まった。
彼は、人質だ。
それは誰から見ても明らかで。水原からの言葉は、きっと春日の見せる余裕が仕向けたものだ。
ここでやっぱり、と答えればどうなるだろう。少なくとも彼は解放されるだろうか?
ううん、と過った疑問を否定する。
ここで、さっきの答えを覆す訳にはいかない。そんなに、軽い考えでは、ない。
だが、それはきっと、彼をここで見捨てる事になる。
実力行使に出るか、と手の中にある傘の感触を確かめる。が、水原が盾にされる可能性は高いだろう。人質といえど、“ディアボロス”にとって水原は使い捨ての駒以外の何者でもないのだ。
――答えられなかった。
口を引き結び、伏せた視線からその答えを読み取った春日は、ふう、とわざとらしく溜息をつく。
「良かろう。貴様の答えは、こういう……ことだ!」
春日の右手が、水原に伸びる。
そして、彼の後頭部を掴んで、そのまま力を込めていく。
「あ、ああ……」
ぎり、と音を立てそうな程に締め付けられた水原の苦しげな声が上がるのと。
「水原さん……っ!?」
傘を握る手に力を込めて駆け出そうとするのと。
ほぼ同時に。
ぼとり、と水原を掴むその手首が落ちた。
「――あ゛?」
思わず止めた足に、春日の濁った声が重なった。
水原は締め付けられた衝撃で気を失ったのか、地面に崩れ落ちて動かない。
霧緒はその隙に水原の元に膝をついて呼吸と意識を確かめる。
「なんだ……これは」
己の右手に何が起きたのかと、見つめる間も、肘が。腕が。ぼとぼとと落ちて行く。
思わず、見上げたその断面に目を奪われた。
そこにあるのは。肉や骨とは異なる、紅い輝き。
「……うわ。痛そう」
司のどこか呑気な声が聞こえた。
「でも、これでハッキリしたな、みあ」
「そうね。春日恭二が今回の結晶憑き――」
そんな会話など聞こえていない春日は、もう殆ど残っていない右手を掲げて絶叫する。
「これは……これは――なんだというのだァァァァァァァ!」
痛みか、混乱か。
もしくはそのどちらもだろうか。
我を忘れて暴れようとした春日の視線が、霧緒を睨め付ける。
と。
――がしゃん!
天井の窓が割れる音が響いた。
そして飛び込んでくる人影。
それは、音につられて天井を見上げた全員の前をひらりと飛び越え、水原の隣へと着地した。
丈の長い黒の上着。赤いインナーとスカート。
何より目立つ、白くて長い髪。
帽子も、ヘッドホンも無いが。
目の前に居たのは、どう見ても自分だった。
「……え。あれ?」
思わず、そんな声が漏れた。
目の前の自分は、その声で初めて隣の存在に気付いたかのように、ちらりと視線を向ける。
が、何も言わずに視線を水原へと戻した。
ぐったりと崩れた彼を抱き寄せ、持っていた真っ黒な傘を取り出す。
それをすぐさま大振りの鎌へと変えて空中で一振りすると、何も無かった空間が切り裂かれたように黒い空間が現れた。
「あ……待って!」
手を伸ばすが、もう遅い。
彼女は水原を抱いたままその空間へと飛び込み、姿を消した。