File 03
今回の任務は、『幸せ』成分の収集だけでは終わらない。仕上げは警察への通報だ。
尚子は胸元から取り出したスマホを片手で操作して、それを耳に当てた。
「実は今……〈略〉…はい、そうなんです。あ、はい。はい、そうなんです。お願いします。はい」
無表情の唇から紡がれるのは、実際よりも幼い声色。尚子は用が済んだとばかりに、その場を後にしようとした。が、その時、ぞわっとした悪寒が背中の上を駆け抜けた。
「誰?!!」
さっと身を低くして構え、素早く周囲を見渡す。時折すきま風の金切り声が白濁した埃まみれの室内を切り裂くだけで、何も起こらない。しかし、気配は消えないのだ。
しばらくすると尚子は、随分と離れたところで、何かが崩れ落ちる音を拾った。
男だった。
乱雑に積み重なっていた産業機械の部品や壊れた事務机の山の影から現れた。まだ若そうだが身なりはボロボロで、今にも倒れそうな枯れ木のように立っている。両手にナイフ。自らをも切りつけていたのか、腕が血にまみれていた。
尚子は唇を噛んだ。男がいた場所は、尚子が時を止めた範囲の外だったからだ。尚子の行為を見られてしまったかもしれない。
尚子が所属する国家安全保安隊も警察も同じ国家組織の一つではあるが、それらに繋がりは全くない。国家安全保安隊は、一般市民の知られていない裏組織だ。そして、この『一般市民』には警察も含まれている。
この後駆けつけた警察に、この男が何かしゃべるとも限らない。しかし、男はナイフを持っている。尚子は多少の喧嘩の心得はあるが、丸腰。
尚子は頭の中で収集係のマニュアルを検索した。現在のケースにぴったりな対処法を探し当てる。
対処法、その一。『逃げるが勝ち』。
尚子は駆け出した。
ヘアピンをつけた彼女の運動能力は普通の人間を凌駕するものがあり、それはもちろん脚力にも及ぶ。
対処法、その二。『上司へ連絡』。
どんな世界でもホウレンソウは基本中の基本だ。スマホのホーム画面から緊急ボタンをタップ。これで、『上』は尚子の正確な居場所と、現在緊急自体に陥っていることを把握できる。
走る尚子。この三年で、身体はすっかり引き締まった。夜な夜な都会のビルの上を飛び回り、多くの獲物から日々収穫を得る彼女は、黒豹と呼ばれている。尚子が『上』から送られてきた任務に関する参考書類に目を通すなかで、そう呼ばれていることに気づいたのは最近のことだ。
あっさりと外へ出た。だが、あろうことか、背後からナイフを握った男が追いかけてきている。それまでは亡霊のような存在感だったのに、今はすっかり狂人と化し、撒き散らされた殺気は尚子の身体をしっかりと捉えていた。ピンをつけていないにも関わらず、なぜか動きが速い。
風を切って、いや、むしろ風になって駆ける。普通にこのまま街灯が明々と灯る大通りまで出れば、すぐに警察がやってきてこの男を捕らえるだろう。純粋な脚力だけならば、尚子が優っていることは明らか。なのに、これまで経験したことのない恐怖が胸に突き刺さって、じわじわと赤い染みを広げていく。
「嘘……まだ来るの?!」
古い木造の民家や、瓦が半分落ちている長屋が並ぶ暗い細道を抜ける。そろそろ男を撒くことができたかもしれない。そう思って速度を緩め、振り返ったのが運の尽きだった。
「うっ……」
尚子には、スローモーションで見えた。存外尚子の近くにまで迫っていた男が、右手を空へと振り上げる。ナイフが月の光を反射しながらクルクルと回って宙を舞い、気づいたら、尚子の肩に突き刺さっていた。
シュッと音が出たわけではない。しかし、それぐらいの量が勢いよく出血した。目の前が、真っ白ではなく、真っ赤に染まった。
尚子は駆けた。自分でも驚くほど冷静でいられた。こんなところでみすみす命を捨てる気は全く無い。
ついに大通りへ出た。それなりの交通量があり、通り沿いの飲み屋の看板の光などでとても明るい。
尚子は、頭から被っていたマスクを脱ぎ捨て、酸素ボンベと合わせて道の脇にある植え込みの中へ投げ入れた。
そこでもう限界だった。
近くにコンビニがあるのを見つけて、そこへ飛び込んでいく。
「追われています!助けてください!!!」
高校生ぐらいの若い店員は、唖然としていた。
入ってきたのは、全身黒タイツで豊満な身体をもつ若い女。化粧気は無いが、ぱっちりとしたやや吊り目気味の瞳が麗しい。あたかも強盗犯のような風体だが、叫ばれた言葉は助けを求めている。
しかし、店が襲われたわけでもなければ、何から女を守れば良いのかも分からない。ただ、血を流している姿から酷い怪我をしていることは認識できた。
店員は店長の名前を呼んで、裏の方へ走っていった。追手の姿は見えない。素早く店の中に入ったので、あの男は尚子の行方を見失ったのかもしれない。と思ったが、また突然、あの戦慄が尚子の背中を襲った。
自動ドアが開いて、腕を振りかざす男。ナイフが大きな弧を描いて尚子のいる方向へ飛翔する。
「やめて!!!」
そんなことを言ってももう遅い。ナイフは尚子の頭上を通り越した。そして、店の緊急事態に腰を抜かして、動けなくなっていた制服姿の男子高校生の胸に……突き刺さった。