File 01
気だるい春の昼下がり。生徒数1500人を超えるマンモス校、紀之花高校は、ちょうど五時限目を終えたところだった。広い校舎に下校時間知らせるチャイム音が響き渡る。次の瞬間、開放された生徒達のざわめきが各教室から溢れ出した。
二年D組では、一人の女子生徒が派手な外見の同級生達に囲まれている。クラスメイトにとって、これはよくある日常の風景。自らも風景と化すことで、知らぬ存ぜぬと足早に教室を去っていく。
「今日こそ持ってきたんだろうな?!」
「ごめんなさい」
「あたし達、お金が要るのよねー。困ってる人は助けなくちゃいけないって習わなかったのー?」
「ごめんなさい」
取り囲まれた女子生徒は、座席についたまま俯いている。前髪が長く、表情は見えない。
「尚子ちゃん?『ごめんなさい』じゃ分からないよ?明日こそ持ってくるんだよね?持ってこなかったらどうなるか、分かってるよね?!」
その後、尚子は、髪を強く引っ張って振り回され、鞄を三階にある教室の窓から外に捨てられてしまった。這いつくばっていた汚い床から顔を上げ、のろのろと立ち上がる。誰もいなくなった教室を無表情で見渡した。
「馬鹿ばっかり」
そして、鞄を回収するために廊下へ出ようとした時だ。クラスメイトの男子が入れ替わるようにして教室に入ってきた。
「あ、ごめん!」
男子は余程慌てていたのか、出入口にいた尚子とぶつかった。忘れ物を取りに来たらしい。自分の机から教科書を取り出すと、走って教室から出ていった。
「……あれ?」
騒々しい男子をぼんやりと見送った尚子は、足元に1枚のカードが落ちているのを見つけた。拾い上げて、両面を確認する。
……何も書いていない。
ただの銀色のカードだ。特徴があるとすれば、テレホンカードのように一本の黒い線が入っているだけ。
尚子は、なんとなく頭に引っかかるものがあって、そのカードを制服のポケットに仕舞っておいた。
***
午後10時。大きな街のはずれ。古い雑居ビルが立ち並び、時折犬の遠吠えと暴走族のバイク音が遠くから聞こえてくる。
尚子が、変身する時がやってきた。
全身、身体の線にぴったりと沿った黒タイツ。星も見えない闇夜の下、屋上に整然と並ぶエアコンの室外機の上で胡座をかいている。ワックスで纏めあげた長い黒髪は、頭の高い位置から背中へと流れ、サイドには白いシンプルなピンが留められていた。前髪も全て上げているので、視界もクリアだ。
尚子は手元にあるスマホの画面を睨んだ。地図が表示されてある。以前も行ったことのある場所だった。尚子は胸元のジッパーを少し下げて深い谷間にスマホをねじ込むと、ビルの端に向かって走り出した。ここは地上六階。錆びた高い柵を乗り越えて、尚子は隣のビルに向かって跳躍した。
***
都会の中心部にそびえる高級マンションの一室。クラシカルな洋風家具でまとめられた室内では、十数名の男女が喝采を上げていた。
「婚約おめでとう!!」
くっついては離れ、くっついては離れしていた三十歳ぐらいの男女が、ようやく正式に結ばれることとなった。彼らの遊び仲間は、部屋を飾り立てて立食パーティを催している。本番さながらの大きさがあるケーキに、紅いリボンのついたナイフが差し込まれた。ワイングラスが音を立ててぶつかって、たくさんの祝いの言葉と拍手に包まれる。ついに、主役2人がキスをした瞬間。
「邪魔するよ」
突然、地上八十一階の窓が開け放たれ、外の冷たい風が部屋の中へ流れ込んできた。
颯爽とした身のこなしでテーブルに近づく尚子。ピンと立てた人差し指をぷちゅりとケーキの側面に突っ込み、それをおもむろに口へ運ぶ。
「甘い」
尚子は、指をパチリと鳴らした。
途端にそこは静寂に包まれる。流れていたBGMも聞こえない。部屋にいた人間は、よく作り込まれた美術館の彫像のようにビクリとも動かなくなった。傾けていたワイングラスからは、白金の透明な液体が飛び出していて、その形状が波打ったまま空中に保たれている。
そう。この部屋の時間は止まったのだ。
尚子は、ヒップバッグから注射器を取り出した。じっとしている主役の男の首元に、細い針をつっと当てる。
「ごめんなさいね。これも世のため、人のため」
真空管は、見る間に桃色の液体で満たされていった。
「女はそれ程幸せじゃないみたいね。男だけにしておくか」
時を止めておけるのは最大5分。この道三年の尚子には十分な時間だ。収穫物を電灯に翳してにんまりする余裕さえある。尚子は、窓のへりに跨って部屋の中を振り返ると、もう1度パチリと指を鳴らした。時が再び流れ始める。彼らに尚子の記憶は残らない。
外を眺めると、そこは空に手が届きそうな高さだった。窓から飛び出した黒いパラシュート。眼下に広がる光の海へと緩やかに沈んで消えていく。
 




