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最後の手紙

作者: 綾川 五月丸

 彼女がその手紙を持って僕の元を訪れたのは、彼の葬儀が済んで二週間が経ったころだった。その日は朝から曇り空で、たくさんの水分を含んだ雲が重くどんよりと空を覆っていた。

 当然のことだろうけど、彼女はとても疲れた顔をしていた。きっとあまりちゃんと眠れていないのだろう。ふっくらとしていた頬は少しこけていたし、目の下にできた隈は化粧でも隠しきれていなかった。

 僕らはお互いしばらく黙ったまま、ソファに向かい合って座っていたが、おもむろに彼女が

「ごめんなさい、急に訪ねてきてしまって」

「それは全然構わないよ。でもよくここが分かったね。この家に引っ越してからは、君はまだ一度も遊びに来ていなかっただろう?」

「えぇ。でも彼からだいたいの場所は聞いていたし、住所も年賀状に書いてあったから」

 彼女はそこで言葉を切ると、居心地悪そうにもぞもぞと座り直して唇を噛んだ。何かを考えているときの癖だ。

 彼女は薬指に指輪をしていなかった。思い出すのが辛くて外してきたのだろうか。結婚してからはずっとつけているところしか見たことがなかったし、葬儀のときも嵌めていたのを覚えている。僕の視線に気付いたのか、少し気まずそうに

「指輪はもう外しておくことにしたのよ。いろいろあって」

「実は、今日こうして来たのは、あなたに見てもらいたいものがあるからなの。ずいぶん悩んだのだけど、やっぱりあなたにも見てもらうべきだと思って」

 そう言って彼女は、膝に乗せていた小さな黒いハンドバッグから、薄緑色の封筒に入ったその手紙を取り出したのだった。


 〝君がこの手紙を読んでいるということは、恐らく僕は君の側にいないのだろう。君にはずいぶん迷惑をかけた。今更謝るなんて、卑怯だと思われるかもしれない。どうして直接言わないのかと。けど、色々考えてみても僕にはこうする他良い方法を思い付かなかったんだ。僕は口下手だし、きっと伝えたいことの三分の一も伝えられないと思う。とはいっても、こんな風に人に、それも極めて親しい君みたいな人に手紙を書くなんて、ほとんどしたことがないから、うまく書くことができないかもしれないけど、それはどうか許してほしい。

 僕の友だちの話をしよう。君も知っての通り、僕には友だちと呼べるような人間はほとんどいない。その数少ない友人たちの中でも、彼とは一番長く、そして深く付き合ってきた。僕にとっては親友、といってもいいかもしれない。

 僕が彼と出会ったのは高校生の時だった。その頃、僕はまだひどい人見知りで、いつも教室の片隅で本ばかり読んでいたし、クラスの同級生たちとはほとんど口をきいたこともなかった。それとは対照的に、彼は爽やかな笑顔の持ち主で、誰とでもすぐに打ち解けてしまうことができた。そんな彼がどうして僕みたいな人間に興味を持ったのかは分からないけど、ある日昼休みに僕が教室で本を読んでいると

「いつも何を読んでるんだ?」と話かけてきた。そこから本を貸し借りするようになって、仲良くなっていったんだ。その時何を読んでいたのかは忘れてしまったけど、僕は彼が意外にも読書家で、これまで読んだ本や作家について語り合ったことをよく憶えている。僕の高校時代は、もし彼がいなかったらひどくつまらないものになっていただろう。彼を通して、他のクラスメ─トたちとも話すようになったし、おかげでだいぶ社交的にもなっていった。君からしてみれば、今でも全然社交的じゃないかもしれないけど、それ以前の僕は、自分で言うのもなんだけど、本当に無口で無愛想な少年だったからね。

 上京して大学に入っても、僕達の仲は変わらなかった。もちろん、新しい友人もできたし、彼とは学部も違ったから、かつてのように毎日顔を合わせるということはなかったけど、それでもやっぱり彼とは気心が知れているし、遠慮なくなんでも話せた。それは彼にしても同じだったみたいで、僕らはよく授業をサボって映画を観に行ったり、どちらかの家で朝まで酒を飲んだりしていたものさ。僕らには、行きつけの小さなバ─があったのだけど、ある時そこに新しくアルバイトのウエイタ─の女の子が入った。歳は僕達と同じくらいで、小柄で可愛らしい子だった。働く姿は機敏で見ていて気持ちが良かったし、話してみても聡明で、僕らのつまらない冗談にも付き合ってよく笑ってくれた。彼女がそこで働くようになってからというもの、僕たちは毎晩のようにそこに通っては、ビ─ルばかり飲んでいたよ。僕は彼女に会うまでは恋なんてしたことがなかった。もろん、異性に興味がなかったわけじゃない。けど、前にも書いたように、思春期は人見知りで無口だったし、徐々にマシになっていたとはいえ、いきなり女の子と仲良くなるような芸当は到底無理だった。だから、彼の社交的な性格が、その時は本当に羨ましかったよ。僕が彼女に恋をしたように、彼も彼女のことを気に入っていた。そのうちに、僕たちは三人で遊ぶようになった。女の子は一つ年下で、大学も僕たちのところからそう遠くなく、近くの寮から通っているということだった。

 僕は彼女のことが好きだったけど、そのことを彼に打ち明けることはなかった。彼も彼女を好きなのは一目瞭然だったし、彼女だって僕よりも、明るくて話し上手な彼としゃべっている方が楽しそうで、変に張り合ったところで気まずい思いをするのは目に見えていたからだ。それに僕は、そうして三人で遊んでいるだけで充分だったしね。純粋だろ?けど、問題はここから起こるんだ。

 そのうちに、彼と彼女は恋人同士になった。彼の方から告白したんだ。もちろん彼は僕に相談していた。実は彼女のことが好きなんだけど、受け入れてもらえるだろうか、と。僕は親切にも一緒になってデ─トプランまで考えたり、三人で飲んでいるときには、さりげなく二人きりになれるように席を外したりもした。今思えば、なかなか立派な行いだったよ。けど、誤解しないでほしいのが、僕はその時は本気で彼らがうまくいくのを願ってたってことなんだ。決して、彼を恨んだり、嫌いになったりはしなかった。

 彼らが付き合い出しても、僕たちは相変わらず三人で遊んでいた。もちろん、二人きりで会うこともあったんだろう。けど、僕の知る限りでは、ほとんどなかったと思う。同時に、僕が彼と二人で遊ぶこともなくなっていった。さっきも書いたように僕は、始めのうちは彼らの仲を応援しているつもりだった。だから、彼らが親しく話しているのを見て嫉妬している自分に気が付いたときは愕然としたよ。確かに僕は不器用で無愛想な人間だったけど、それまで誰か他人のことを憎んだり、必要以上に羨んだりしない性格だと思っていた。人がどうであれ、自分は自分なんだ、というスタンスでね。だけど、ほんとはそうじゃなかったんだ。そして自分自身の嫌な面を自覚するようになればなるほど、彼に対する嫉妬は深まっていき、その度ごとにまた自己嫌悪に陥る、という堂々巡りを繰り返していた。しかも、一周するごとに傷が深くなっていくんだから、本当に救いがない。それでも僕は、そんな気持ちを誰にも言わなかった。自分の嫉妬心に負けて友情を捨てるなんて、あまりにも惨めだったから。

 たいていのカップルがそうであるように、彼らもある程度にまで親密さが達すると、時々喧嘩をするようになった。もともと彼は社交的な人間で、彼女以外にも仲のいい女友だちはたくさんいたし、彼女に黙って時々遊んでいるのも僕は知っていた。実際に浮気していたのかまでは定かではないけれど、彼らがもめる時は大抵その問題だった。彼女は喧嘩をすると、いつも僕のところに来て、愚痴を言ったり相談したりした。その度に僕は慰めたりあるいは二人の仲を取り持ったりしたんだ。内心では、別れて彼女が僕の元に来てくれることを思いながらね。だから僕は彼に嫉妬はしながらも、憎んだことはなかった。だってどれほど喧嘩しようが、彼女が選んだのは彼なのだったし、表向きはいい友人を演じながら破局を願っている僕の方が遥に汚い人間だという自覚があったから。

 ある時、彼らはひどい喧嘩をした。どうやら彼がある女の子の家に泊まったらしい。彼は、何人かが集まって飲んでいるうちに眠り込んでしまったと説明したみたいだが、彼女は本当に傷ついていた。その女の子というのが度々浮気を疑われてきた相手なのだから無理もない。

泣きながら電話をかけてきた彼女に僕がしたのは、飲みに誘うことだった。

「とりあえず、今の嫌な気持ちを一度忘れて、冷静になってからもう一度考えてみよう。結論を出すのは、それからでもいいんじゃないかな」そんな内容のことを言ったのだった。愚痴や悩みを聞いて、お互いがいささか酔ったところで、店を出て僕の家で飲み直すことになった。彼女と家で二人きりになるのは初めてだった。多少の下心がなかったといえば嘘になる。けど、彼女はきっと彼を裏切るようなことはしないし、僕自身そんなことをして彼女を傷つけるようなつもりはなかった。結局、何事もなく次の朝を迎えたのだけど、二人きりで一夜を明かしたというので、このことを知った彼は激怒した。俺が外泊した時は散々文句を言ったくせに、自分も同じことをしているじゃないか、と。

 僕は彼に絶交されるのを覚悟して謝りに行った。すると彼は意外にも、気にすることはない、これは俺とあいつの問題だから、と言ってあっさり許してくれたんだ。僕はすっかり混乱してしまったよ。だって僕にも少なからず下心があったのは事実だし、僕の彼女に対する気持ちも気付かれていると思っていたからね。それとは逆に彼らの仲はこじれていった。どちらも意地になって互いの言い分を譲らないで、おまけにその中心には僕がいるんだ。彼女は僕のせいで今まで非難する側だったけれど、されることにもなってしまった。

 僕は彼女を愛していた。それでも、彼らは喧嘩しながらも愛し合っていたはずだった。だけど、僕が原因で二人が喧嘩になってから、僕は自分の気持ちに耐えられなくなっていた。ある日電話で彼女からの相談に乗っている時に、実は君を愛していると打ち明けてしまったのだ。今、僕は耐えきれずに告白したと書いたけど、本当はそれだけじゃなくて、彼らうまくいってないこの時なら、彼女を自分のものにできるんじゃないかと密かに思っていたのも事実なんだ。彼女を板ばさみにするだけだと分かっていながらも、僕は彼女の苦しみより自分の都合を優先した。

 彼女は悩んだだろう。それまでただの友達だと思っていた男から急に告白され、しかもその男は彼氏の親友だなんて、どう考えても修羅場しか待ってない。

「今まで気付かなくてごめんなさい。そう言ってくれるあなたの気持ちは嬉しいのだけど、今はうまく考えられない。色んなことがもう少し落ち着いてから返事をさせて」          

 僕は、もちろんそのつもりだ、むしろ混乱させてしまって申し訳ない、何なら忘れてくれても構わないと言った。そう言いながらも、拒絶されなかったことに安堵しつつ、彼女に厄介な問題を負わせてしまったことで後悔していた。すっきりした気持ちと自分の卑劣さへの嫌悪感やらが入り混じって僕はしばらくの間、不眠症になってしまったよ。

 不思議なことに、彼に対しては、罪悪感だとかそういったものは微塵も感じなかった。きっと、散々彼女を泣かせてきたのだから文句を言われる筋合いはないと心のどこかで思っていたんだろうね。

 結局、しばらくして彼らは別れることになった。一体どのような話し合いがもたれたのか、僕の告白を彼に伝えたのかもわからない。気が付いたら僕たちは今までのような友達に戻っていた。彼らがそうすればするほどに僕は日に日に別れさせたのは自分だという思いが募っていった。一度は自ら壊そうとしておきながらもそれに怯えていた僕は、何事もなかったかのように彼らが振る舞うのを見て、やっぱり別れるべきではなかったんじゃないかと思っても、何も言い出すことはできなかった。

 僕が大学を卒業する少し前、僕はまた彼女と二人だけで飲む機会があった。本当は彼も一緒に三人で会う予定だったのが、彼が急な都合で来れなくなってしまったんだ。二人きりで会うのは彼らが別れるきっかけになったあの夜以来だった。僕らはしばらく当たり障りのない話をしていたけど、だんだん彼女の口数が減っていって、しまいには黙り込んでしまった。しばらく沈黙が続いた後、

「あの時の告白はまだ有効かしら。返事をしていなかったのだけど」

 と彼女が言った。

「今さら遅いかもしれないけど、私の気持ちを伝えておくわ。私もあなたが好きよ」

 僕はもうなかったことにされているのだと思っていたから戸惑った。もちろんまだ彼女のことはずっと好きだったから嬉しかったけれどなぜ今になってそんなことを言うのか、本心から出た言葉なのかよく分からなかった。そんなはずはないんだけど、もしかしたら、彼らが一緒になってからかってるんじゃないか、破局の原因となった僕に復讐しようとしてるんじゃないかなんて馬鹿げた疑念が消えなかったんだ。でも、結局僕は彼女と付き合うことになり、順調に交際を重ねやがて結婚した。

 その間、僕はもちろん彼女を深く愛していたし、彼女の幸せを第一に思っていた。ただ、彼との仲を壊してしまったことへの罪悪感や、僕が彼よりも劣っていることを明らかにして彼女を失望させているんじゃないかという思いだけは消えなかった。 

 もうとっくに気付いていると思うけど、今の話の中にでてくる女性というのはもちろん君のことだ。もしかたら、ここまで書いてきたようなことは、君からしてみれば事実と全然違うと思うかもしれない。でも僕はこの手紙を書かずにはいられなかった。これは「僕の立場」から見た真実なんだ。

 僕が生きているうちに君がこれを目にするようなことは恐らくないはずだ。繰り返すけど、僕が君を愛していなかったわけでは決してない。ただ、君からの愛を、僕自身のつまらない思い込みによって、信じきることができなかったというだけなんだ。僕のような男と一緒になったばっかりに、不幸にさせてしまったんじゃないかと気がかりで、けど僕は君無しにはいられなくて、ほんとに身勝手な人間だった。今までありがとう。これからはぜひ幸せになってくれ。”


 僕はその手紙を読み終えると、元通り綺麗に畳んで封筒に戻した。封筒の裏側には小さく丁寧な字で“ナツキへ”と書かれていた。彼女の名前だった。

「先週彼の遺品を整理していて見つけたのよ。ねぇ、私はどうすればいいの?あの人が死んでそれだけでもショックだったのに、そんなものを見つけて、そこには思いもよらないことが書いてあったのよ。彼はどうしてそんなものを遺したりしたのかしら。私は彼を本当に愛していたのに」

 彼女の言う通りだった。どうしてこんなものを遺す必要があったのだろうか。これでは、手紙というより遺書のようなものだ。

「あいつが亡くなったのは事故だったんだろ?」

「そうよ。警察でも色々調査はしたみたいだけど、結局のところ事故として処理されたわ。それに、まさか自殺なんて、考えられない。これを最初読んだ時は、遺書かと思って疑ったけど、いつ書かれたものかもわからないし、事故の日だっていつもと変わった様子はなかったから」

「これを警察には?」

 彼女は首を振って

「人に見せるのはあなたが初めてよ」

 手紙に出てくる親友というのは僕のことだった。確かに僕たちが別れたのは、彼のことがきっかけではあったけれど、それ以前からうまくいっていなかった。遅かれ早かれ僕らは破局していただろう。良い友達が良い恋人になるとは限らないのだ。それなのになぜ彼がこれほどまでに後悔をしなければならなかったのか。きっと彼にとって、その時の僕らがあまりに理想的に見えたのかもしれない。特に僕は彼の前では見栄を張って、実際以上に幸せそうに振る舞っていた。彼は僕のことを随分買いかぶってくれていたようだが、僕も彼のことは一人の人間として尊敬していたし、それだけに情けないところは見せたくなかった。

「あなたはどう思う?あの人は幸せだったのかしら」

「君のことを愛していたというのは本当のことだと思うよ」

 僕はそう言うことしかできなかった。確かに彼は彼女を深く愛していたのだろう。自分の死後も、彼女の心を捉えて離さないために、恐らくこの手紙を書いたのだ。僕はそう思ったが、それを彼女に言うことはできなかった。言ってしまえばきっと彼女は傷つくだろう。彼女だって彼を愛していたのだから。

 彼女を送り出すと、外は雨が降り出していた。じっとりと湿った空気が肌に張り付く。

 僕はしばらく雨を眺めながら、彼と過ごした長い時間のことを想った。それは昨日まではただ懐かしいだけの想い出だった。だけど今ではそれは誰か僕じゃない他人の人生みたいだった。彼が書いていたように、立場が変われば事実は真実ではなくなるのだ。僕はドアを閉めて過去から現実の時間へ戻っていった。


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