第四章 根の国の鬼たち 前編
「うう……これだけは未だに慣れないな……」
竜太郎は再び海中へと出ていた。後ろでは今出てきた第二ハッチがすでに閉まり掛けているが、それよりも深刻なのは竜太郎の耳の痛みだ。
戦水服の内部は気圧が変化しやすい。特に、海へ出た瞬間は一気に気圧が変わるので、人によっては酷い痛みが耳に発生する。
そして、竜太郎はそれに分類されるタイプの人間だ。
竜太郎は必死になって唾をのみ込み、耳抜きをする。二度、三度と耳抜きを行い、ようやく痛みが引いてくると、やっとのことで一息つけた。
「毎度、毎度、これだから嫌なんだ。……いっそ、ずっと海の中に居れればな」
海は好きだが、毎回この痛みを味わう必要があるということは、竜太郎自身もまいっている。いわゆる、一種のジレンマだ。公私において妥協しなければならないことだが、これのおかげで、ただでさえ低い竜太郎のテンションが駄々と下がる。
人知れず竜太郎が気落ちして海中を漂っていると、まだ痛みの残る耳には堪える高い声が飛び込んできた。
『――大尉!? もう出たんですか!?』
ヒメコの声だ。本来ならよく通った気持ちの良い、しかし、今の竜太郎にとっては殺意すら湧きかねない声で通信を入れてくる。
「…………ああ」
ぶり返した痛みに耐えながら、竜太郎は低い声色で返答する。
「はぁ? ……えっと、とにかくですね、これより本艦は回頭を行いますので、大尉は本艦から距離を取ってください」
それに通信機の向こうのヒメコは戸惑ったのか、つっかえ気味にそんなことを言ってきた。
「了解」
竜太郎はそれを聞くと、早々に鳳龍の艦体から距離を取る。
というよりも、鳳龍自体もそれなりの速度で航行していたのだから、竜太郎がその場に留まるだけでも、勝手に離れていってしまう。
間もなく、鳳龍と竜太郎は百メートル近く距離が開いた。
「離間、目測で約百メートル。安全圏への移動完了。回頭作業、どうぞ」
竜太郎は安全な距離まで移動したことをヒメコに伝えた。
『はい。では、回答作業を始めます』
ヒメコからも返答が返ってくる。その後、少し遠くでヒメコが『大尉の離艦を確認。回頭、どうぞ』と、誰かに伝えているのが聞こえる。その後から、庄野少佐の声で『急速回頭!』との声も漏れ聞こえてきた。
その直後、鳳龍は速度を急速に緩め、スクリューの角度を斜に向ける。
斜めに傾いたスクリューによって、鳳龍は徐々にその先端を竜太郎の方へ差し向けてくる。それは丁度、コンパスの針が磁力に引かれて一周するのに似ていた。
かなり距離を取っているにもかかわらず、その巨大な船体が真っ直ぐ向いてくるのは、かなりの迫力がある。
(これで魚雷が誤射でもされたら、ひとたまりもないな)
その迫力に、竜太郎はそんな縁起の悪い想像を浮かべてしまう。
鳳龍も潜水艦におけるセオリーにもれず、艦首には六門もの魚雷発射管が搭載されている。しかも、鳳龍のそれは六百五十ミリもの大型魚雷を使用する超大型のものだ。直撃すれば同型の大型潜水艦すら一撃で沈むだろうという、艦載魚雷としては最大級の兵器である。
そんなものの射線上にいるのだから、流石の竜太郎も気が気でない。しかも、竜太郎は鳳龍のクルーが素人に毛が生えたような集団だと知っている。多少なりとも不安を覚えるのは当然だった。
「……退けとこう」
竜太郎は静かに上昇し、鳳龍の射線から外れた。
『――回頭完了しました。大尉、目視で船体に異常がないか報告してください』
途中、ヒメコから再度の通信が入る。その内容は艦体の点検要請だった。
急速回頭は艦体にかなりの負荷を掛ける作業だ。場合によっては、船体に亀裂が入ったりすることもある。いくら水圧に耐えられるだけの強度を確保してあるとはいえ、経年劣化や整備不良で破損を引き起こすことは、特別珍しいことでもない。そう言った意味では、必要な要請だった。
「…………異常は見当たらない。どうぞ」
竜太郎は遠目に艦体を眺め、亀裂やそれによる空気漏れがないことを確認し、報告する。
仮にも新造艦なのだから、それもある意味では当然だ。むしろ、処女航海でそのような不良を起こすのであれば、それはそれであってはいけない問題と言えるだろう。
『了解です。では次に――』
「…………どうした?」
そうして作業報告を交わしていた竜太郎だったが、途中、不意にヒメコからの通信が途絶える。
それはすぐに再開されたが、通信機に飛び込んできたのは焦っているような大声だった。
『――敵艦に動きあり! 機関駆動音上昇、戦闘船速に移行した模様! ……今、魚雷音を聴知しました! 高速航行、数は二つ! ソナー音!』
「……誘導魚雷か!?」
相手が魚雷を発射したとの報告を受け、竜太郎は敵艦がいるであろう後ろ方向を見やる。
そこにはまだ敵艦はもちろんのこと、発射されたという魚雷も見えない。しかし、耳を澄ますと、
「…………来る!」
ソナー特有の独特な機械音が、竜太郎の耳に直接届いてくる。それはまだ囁くほどに小さい音だが、徐々に大きくなりつつあった。
「――魚雷迎撃に移る! 鳳龍は衝撃に備えろ!」
竜太郎は持っていたシーランサーのセーフティを外し、構えながら叫ぶ。
相手の放った魚雷からはソナー音が確認された。つまり、相手の放った魚雷は誘導式の長距離航行魚雷だということ。それは潜水艦に反応し、追尾してくる種の魚雷だ。放たれたら最後、潜水艦が独力で振り切る術はない。
それはつまり、戦水士として海に出ている竜太郎が撃ち落とす以外、迎撃策がないということを表していた。
『りょ、了解! 期待します、大尉!』
このやりとりを最後に、一度、ヒメコとの通信が切れる。
(期待を背負うなんて柄じゃないんだが……)
戦水服の中で、竜太郎は頬を緩ませる。このミスの許されない状況でも、竜太郎は大して緊張していなかった。
竜太郎は構えたシーランサーのトリガーに指を掛ける。
(いつでも来い――と言いたいところだが、魚雷二発の同時処理か……。やったことがないからなんとも言えないな)
シーランサーに装填されている小型魚雷は金属センサー式の近接信管を用いている。直接当てなくとも魚雷を迎撃することは可能だが、二発の魚雷を撃ち落とせるかと言われれば、それは難しいと言わざるを得ない。
竜太郎自身も迎撃訓練を積んではいるが、二発同時に迎撃するなんてことは未経験のシチュエーションだ。
そも、魚雷迎撃の成功率は熟練の戦水士でも三割ほどで、本来なら魚雷一発につき三人がかりで迎撃に掛かるのが通常だ。一人で二発の魚雷を迎撃するなど、本当であれば狂気の沙汰である。
今、竜太郎はそういった健常な精神者なら発狂しかねない、異常な事態に直面している。
(艦の連中も生きた心地はしてないだろうなぁ……。死んで恨まれるのだけはゴメン被りたいが……)
しかし、竜太郎はそんなことを考えるくらいには余裕があった。脱力した指をトリガーに掛けたまま、まるで友人の来訪でも待つかのように魚雷が来るのを待ちわびる。
すると、竜太郎の耳に聞こえ続けていたソナー音が、一定の音程を越えた。それはもはや音ではなく、振動として竜太郎の戦水服を震わせる。
直後、竜太郎の目に二つの魚雷が飛び込んでくる。並んだ二つの魚雷は海水でできた青い立体キャンパスに白い水泡の雷跡を引きながら、真っ直ぐに鳳龍へと突き進んでいる。
「――御早いご到着で」
竜太郎はそれを確認すると、迷いなくトリガーを引いた。
竜太郎の持つシーランサーからは、文字通り“槍”が伸びるような軌跡を描きながら、小型魚雷が発射される。
それは迫りくる二つの魚雷の“間”へと、吸い込まれるように伸びていった。
これは竜太郎の機転だった。通常ならより確実に魚雷を処理するため、直撃を狙うように打ち込むのが定石だが、それでは二発同時処理は難しいと判断し、竜太郎はあえて、シーランサーを並走する魚雷同士の間に打ち込んだのだ。
(上手くいけば、二つとも巻き込んでくれると思うんだが……)
固唾を飲む……ほどには緊張などしてはいない竜太郎だが、それでも、ことの成り行きを静かに見守る。
その視線の先では、今まさに魚雷と魚雷が交差しようとしていた。
シーランサーの小型魚雷の脇を、丸太のように巨大な対艦魚雷が通過しようとする。
――その瞬間、竜太郎の放った『槍』が爆ぜた。
その小さな魚雷の小さな爆発は、確かに二つの巨大な魚雷を飲み込んだ。直後、誘爆したと思われる大型魚雷の爆発が起き、その周辺の海水を吹き飛ばす。
それはまさに、突如として海中に発生した“台風”だった。魚雷の爆発で渦巻いた大量の海水は、突風のようになって竜太郎を襲う。
それに、竜太郎の体は呆気なく流される。カメラ越しの視界にはノイズが走り、耳元の通信機からは砂嵐が聞こえる。上も下もわからないほど錐揉みしながら、竜太郎の体は濁流に弄ばれた。
(――おお! これは初めて味わう海!)
しかし、竜太郎はこれに歓喜する。人為的に作られたとはいえ、初めて見るこの海の新しい一面に、思わず心を躍らせた。
そうして竜太郎が静かにはしゃいでいると、遊びに飽きたとでも言うように、突如として水流はその激しさを治めてゆく。そうして間もなく、海はまた静けさを取り戻した。
(……なかなか楽しかったな、今の。もう一発くらい飛んでこないかな、魚雷)
少し口惜しく思いながら、竜太郎は足のスクリューを起動し、姿勢を確保する。
そうしていると、竜太郎の耳にまたヒメコの声が飛び込んできた。
『――い! ……大尉! 返事を! 返事をしてください!』
ノイズ混じりに、今にも泣き出しそうな声が通信機越しで聞こえてくる。
「よう、ヒメコ。今、なかなか味わえない経験をしたぞ。そっちはどうだった」
それに、竜太郎は茶化すように答える。
『……こっちは心配してるんですから! そういうのやめてください!』
「えっ? あ、ああ。……そうか、そうだな、そりゃ申し訳ない」
竜太郎はヒメコにその態度を叱られてしまう。思った以上の剣幕に、らしくもなく戸惑った竜太郎だったが、すぐに軽率を自覚して謝る。
これに関してはふざけた竜太郎が全面的に悪いので、素直に謝るのは当然だっただろう。ましてや、ヒメコは明らかに竜太郎の身を案じていた。それは感情起伏の乏しい竜太郎にも流石にわかる。怒らせるようなことを言ったのは明らかだった。
案の定、通信機の向こう側のヒメコは不機嫌そうに息を巻いている。
『まったくもう! ……こちらも少し揺れましたが、行動に支障はありません。今、ブリッジは状況把握に移っています。大尉はその場で警戒に当たり、次の指示を待ってください』
しかしながら、流石は鳳龍のオペレーター。すぐに状況報告に移ってくれる。
「了解。周囲警戒を厳とし、待機する」
それに、竜太郎は返答するが、その言葉とは裏腹に脱力すると、ハンモックにでも寝込むかのように、水中へ横になる。
(……魚雷発射から到達まで、三十秒ってところか。まあ、第二射に移るにしても、一息つくだけの時間はあるよな)
慢心。というよりは確信に近い気持ちで、竜太郎はサボタージュする。
潜水艦同士の戦闘というのは、かなり間の開いたものになりがちだ。基本的に遠距離戦なので、先ほどのように、魚雷で攻撃しようにも着弾まで時間が掛かるからだ。
もちろん、潜水艦のクルーたちは大忙しで準備に取り掛かっているのだろう。魚雷一本打つのにも、作業手順は山ほどある。
しかし、戦水士としては正直暇なのだ。竜太郎ほど図々しい態度を取るものも稀だろうが、暇を持て余すのは珍しくない。
極論するのであれば、迎撃行動のために緊張するべきなのはほんの一瞬。むしろ、こういった間すら緊張したままでは、精神力がものを言う戦水士は力を発揮できない。そう言った意味では、竜太郎の行動は見栄えこそ不躾だが、確かに“合理的”だった。
竜太郎は海中で欠伸しながら、手足を伸ばし、休息する。今まさに戦闘中とは思えない態度で、実にリラックスしていた。
通常、第一波の攻撃の後、第二波が来るまで一分弱は間が開く。その僅かな時間を、竜太郎は実に有意義に休息していた。
しかし、その頭の中では、また別のことを考えてもいる。
(問答無用で攻撃、か。……こいつはおかしいや)
それは、先ほど受けた敵艦からの攻撃についてだ。
(あいつらがライを追ってきた奴らなら、問答無用で攻撃なんかするもんかね? ライは優秀な技術者だ。普通なら“奪い返す”のが筋ってもんだろうに)
優秀な技術者の価値は計り知れない、それは何時の時代も同じだ。特に、ライのような規格外の戦水服を作り出す程の技量ならば、現在のニライカナイと竜宮の関係を鑑みるに、都市のトップクラスの重要性を持つだろう。
だというのに、相手は問答無用で攻撃してきた。それも、必殺の対艦魚雷で。
それが竜太郎の疑念を呼ぶ。
(……技術的優位性を放棄してでも、抹殺しなきゃならない理由がある?)
竜太郎の頭に浮かんだ結論はこうだ。“技術力を差し引いてでも、抹殺しなければならない存在”、それがライである、と。
(…………なにを隠してるんだろうな、あの子は)
同時に、ライが隠しごとをしていることも知っている竜太郎は、疑心する。
※
竜太郎が一息ついている頃、鳳龍のブリッジではそれに反するように、目まぐるしく喧騒が飛び交っていた。
「各部、損傷チェック!」
「損傷、確認されず! 航行に支障なし!」
「衝撃による負傷者もなし! 各班、作業を再開しています!」
「魚雷装填、一、二、三、四番まで完了! 発射待機中!」
コンソールに張りついていた各クルーたちからは、続々と報告が上がる。
そんな中、ブリッジの中心にある艦長席では、庄野少佐が頭を抱えていた。
「ほ、本当に撃ってきた……!?」
軍帽の上から頭を拉げ、震えあがっている。
「艦長! 魚雷発射の準備は完了しておりますが!?」
そんな庄野少佐に、ヒメコが催促でもするかのように言う。
ヒメコはこの現状で守勢に回ることが、いかに不利なのかを理解していた。なにせ、こちらが魚雷を撃ち込まれた場合、その迎撃に当たれるのは竜太郎一人だけなのだから。
ヒメコ個人としては竜太郎に信頼を寄せていたが、それでも、再び複数の魚雷を同時に処理するという神業を期待するのは虫が良すぎるというもの。
ならば、第二波攻撃が来る前に、こちらも攻撃に移るべき。そう、考えが及んでいた。
この考えと同意見の人間は、なにもヒメコに限ったことではない。ヒメコが庄野少佐に催促したのを聞いて、他のクルーもまた艦長席へ注目を集めている。
「だ、ダメだ!」
しかし、答えはその期待を裏切るものだった。脂汗を滾らせた庄野少佐からは、否定の言葉が発せられる。
「敵艦の詳細が分からない以上、許可できん! 味方艦からの誤射という可能だってあるんだ! 攻撃はならん!」
「そんな!?」
ヒメコは思わず席から立ちあがる。
「応答もない艦から攻撃されたのですよ!? 明らかに敵性艦です! それに、攻撃された以上は自衛権が発動します! 報復攻撃は適切です!」
ヒメコは必死に庄野少佐を説得する。この艦自体が危険に晒されることもそうだが、それ以上に、このままでは外にいる竜太郎への負担があまりにも大きすぎるからだ。
「ならん! せ、せめて、本部と連絡して指示を仰いでから……」
しかし、庄野少佐は頑なにそれをよしとしない。どうあっても、“自分の権限”では攻撃指示を出したくないようだ。
恐らく、攻撃を指示した責任を後々に追及されたくないのだろう。自分の命より、立場が危うくなることを恐れているようだ。
「……戦隊本部からの応答は!?」
ヒメコはそんな庄野少佐に見切りをつけ、隣のオペレーターに尋ねる。
「先程から発信しているのですが、うまくつながりません! 恐らく、敵性艦からの通信妨害があるものかと思われます!」
同年代の若いオペレーターからは、そんな答えが返ってくる。
潜水艦の通信方法はレーザー通信によるものが採用されている。ただし、この方式は長距離の通信に適した通信方法ではあるが、安定性に欠け、妨害されやすいという特徴があった。そのため、戦闘に突入した場合、潜水艦は通信機能を制限されるのが常である。
当然ながら、遠く離れた基地との通信など、戦闘中に限ってはできたものではない。
「――艦長! このままでは艦が危険に晒され続けるのですよ!? それに、一番危険なのは単独で出ている浦島大尉です! 最低限の援護くらいはすべきでしょう!?」
ヒメコはもう一度、訴えるような目を庄野少佐へ向ける。
しかし、庄野少佐はあからさまに目を逸らし、口を噤んだ。
「……わかりました! 私は職務に戻ります!」
怒りと失望を抱きながら、ヒメコはコンソールに向かい直す。庄野少佐から見えない所では、その薄色の唇を赤くなるまで噛み締めていた。